『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』より、【氏子・崇敬者】・【境内地】・
【社殿・施設】・【古墳・祭祀遺跡】・【寳物・文書・記録】(完)。
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【氏子・崇敬者】 氏子を分つて直氏子(ジキウジコ)と大氏子(オホウジコ)と
する。直氏子は當社の周邊、岡山市吉備津、同東山、同川入、同惣爪、倉敷市日畑にて
合ぜて約八〇〇戸、大氏子は備中國全體の住民である。江戸末期までは、備中國その他
の村々と當社の社家との間に師檀の開係を結ぶもの多く、信者を氏子といひ、社家を
御師(オシ)と称した。明治以後は師檀の關係は潰滅したが、代つて吉備津講社が組織
され、その数三五〇社に及ぶ。いつぽう全國各地から参拝するもの年々増加し、現在
崇敬者の総数は10,000戸をこえる。
【境内地】 合計六六、四六〇坪。うち社地は六、三九八坪。山林八〇、〇六二坪。
山林は當社の背後にある「吉備の中山」の山林である。「吉備の中山」は、さほど高い
山ではないが(海抜二七〇メートル)、容姿秀麗、古くから歌枕として著名な山である。
平安朝の才媛清少納言が『枕草子』の中で天下の名山として讃美してゐる。別名を鯉山
(リザン)といふのは頼山陽がこの山容が鯉魚の形に似てゐると愛称したといふ。
この山頂に吉備津彦命の墓といふ前方後圓の巨墳がある。その邊から一條の細流が流れ
出て、古備津神社の摂社本宮社の前に達してゐる。その本宮敢の前に、巨碑があり
「吉備中山細谷川古跡」と太字で陰刻されてゐる。幕末弘化三年(1846)この地に來遊
した石見津和野の國學者野々口隆正(大國氏)の筆である。この碑の裏面に、仁明天皇
卽位の天長十年(833)、大嘗祭の主基となつた備中國の風俗歌が刻まれてゐる。
眞金吹く吉備の中山帯にせる
細谷川の音のさやけさ
その後、吉備中山や細谷川は歌枕として歴代の歌集や連歌、俳旬にうたはれてゐる。
また、吉備中山には環状石籬(せきり)もあつて古代祭祀の遺跡ともいはれてゐる。
【社殿・施設】
( 本殿( 國寶 ))本殿は一二一坪、檜皮葺。拝殿は二四坪、檜皮葺、裳階(モコシ)
瓦葺。現在の本殿は棟札などによって応永三十二年(1425)の再建であることは明確で
ある。この本殿は特殊な平面形式および外観によって「吉備津造」と呼ばれ、廣く世間
に知られている。平面は、正面七間、側面は八間であつて、實長はそれぞれ四丈八尺餘
と五丈九尺餘の大建築である。この平面は、いはば三間社流造の周邊に庇を二重にめぐ
らせた形と理解することができる。すなはち三間社に相當する内々陣と内陣の四周を
中陣がとり巻き、その前面に五間の向拝の間(朱の壇)を設け、さらにこれらの周圍に
庇をめぐらして外陣とするのである。周邊から中心にゆくにしたがいて、床も天井も
少しづつ高くなる。一方、外観でもっとも特異なのは檜皮葺の屋根であって、入母屋造
を二つ前後に連結した形をとる。學界で比翼入母屋造といわれる當社の建築様式がそれ
である。軒はきはめて深いが、これもって一軒(ヒトノキ)でつくり、大佛様(天竺
様)の挿肘木(サシヒジキ)の組物をもつて支える。回緣(マワリエン)もまたおなじ
ことである。そしてこれらが、高い龜腹(カメバラ)とよばれる基壇の上にのつてゐ
て、實に美しく調和した建築美を生み出してゐる。
( 拝殿( 國寶 ))本殿の前にただちに妻入(ツマイリ)の拝殿が續接している。
この拝殿も本殿と同時期のもであつて、正面一間・側面三間の正側三面に裳階を付加
し、それを瓦葺の腰屋根をもつてつくるといふ、日本全國に例のない濁特の形式である
本殿および拝殿に大佛様の建築手法が混入してゐることについては、東大寺を再建した
僧重源との關係が考へられようと東大の稲垣助教授が述べてゐる(『原色日本の美術』
16)。すなはち『南無阿彌陀佛作善集』によれば、重源は十二世紀初頭のころ、備中吉
備津宮に結緣(ケチエン)のため鐘一口を施入したこと、またこのとき社殿の造管が
行なはれてゐたことが知られる。このときの造営については裏付けとなる史料がない
が、重源の影響が何らかの形でおよんだことは十分に考へられる。また四面に庇をめぐ
らず平面も、常行堂にならつて考へられた形式かも知れない。
( 北随神門( 國指定重要文化財 ))北の参道の石段をのぽつたところに、北向きに
たつ三間一戸の八足門である。桁行二四尺六寸五分・梁間十二尺九寸一分・棟高二七尺
二寸・臼い龜腹の上に建てられ、柱は太い圓柱を用ゐ、総計十二本あるが、中央の四本
をのぞき前後の控柱八本をもつて「八足門」とよぶ。
屋根は入母屋造、檜皮葺。木部はすべて丹塗りとし、壁は白色に塗ってゐる。三間の
うち中央の間は通りぬけの通路、左右の間には高い床を張り、高欄を設け、前後に仕切
つて、前の間を板壁で圍(囲)ひ、随神を安置している。
中央の間の組物の間に双斗を置いて中備とし、頭貫の木鼻の繪様は単純であるが、
よくひきしまつてゐる。また内部の両側の虹梁上には、板蟇股を置き、三斗を組んで
地棟を支へてゐる。
再建當初の棟札はないが、天文十一年(1542)の上葺(屋根葺替)棟札があるので、
それにより室町中期の再建とされてゐる。
( 南随神門( 國指定重要文化財 ))南の参道から本殿へ續いた長い回廊の中間にある
三間一戸の八足門で、延文二年(1357)の再建といはれ、吉備津宮の社殿群中第一の
古建築である。桁行二〇尺三寸・梁間一〇尺六寸・棟高二三尺三寸、入母屋造の屋根を
本瓦葺とし、大棟と降棟の端に菊桐の紋章のある鬼板を鳥裳(トリブスマ)で飾る。
白漆喰の龜腹の上に太い圓柱を用ゐて建てられ、木部は丹塗り、壁は白壁、前面と背面
の中央の間の中備(組物と組物との間の装飾)に立てた双斗は花肘木となり、三重に巻い
た白線の渦紋がこころよい階調をしめし、また頭貫の木鼻の繪様は、白い花辨のやうな
形につくられ、ともにこの建物の時代的表徴となつてゐる。
内部の本柱の上には美しい渦紋のある大斗花肘木をのせて虹梁を受け、虹梁上の姿の
いい板蟇股を置いて地棟をささへてゐる。
(御釜殿(岡山縣指定重要文化財))現在の御釜殿は安原備中守草壁眞入知種といふ
備中早島の出身で石見大森銀山關係の豪族が願主となつて、慶長十七年(1612)に再建
したもので、桁行七間(五〇尺五寸)・梁間三間(一九尺五分)、一重入母屋造、本瓦葺の
建物。柱はすべて径一尺一寸の圓柱を用ゐ、軒は一重繁垂木で四隅だけが放射状に配列
した扇垂木(アフギタルキ)になつてゐる。
東面中央の一問を入口にして両開棧唐戸を設け、その上に牡丹の彫刻を入れた蟇股を
飾る。この蟇股が軒まわり唯一の装節である。四面ともに柱間に二段に連子窓をつくり
つけ、その下方を板壁にしてゐる。連子窓は探光と煙出しをかねたもので、柱から柱へ
通した分厚い貫(ぬき)を窓緣にして連子をとりつけた簡素な構造、それが二條の帶と
なつて建物の軸部を一周し、いかにも御釜殿らしい景観を作つてゐる。
内部は三本の圓柱で南北二室に仕切り、天井の無い化粧屋根裏、床は拭板敷とする。
北の室は床を一段高くして中央に二口一連のカマドを築き、釜をかけてゐる。南の室は
祈禧依頼者の座になるところで外陣に相當する。
ここには阿曾女(アソメ)といふ二人の老巫女が奉仕し、一人がカマドを焚き、
一入が釜の背後に立つてウラナイの秘法を行なふ。釜がさはやかに鳴ると良いしらせ、
鳴らなかつたり低調であれば不吉なしらせとされる。
このカマドの下には、吉備津彦命の退治した鬼の首を埋めてゐるといふ傳説がある
が、だいたいこの神殿は、古代の豪族屋敷の臺(台)所の建物といつた感じが強く、
民俗學的に興味ふかい資料でもある。
( 回廊 )當社には拝殿・本殿の側面に並行して南に向ひ、南随神門を中に挾んで更に
山麓を南へ延び細谷川の右岸登山道に至る幹線の回廊がある。この幹線の回廊の分岐し
て旧御供殿に至るもの、御釜殿に至るもの、本宮に至るもの、以上四棟の支廊がある。
この総延長一九二間二尺四寸(三九八メートル)である。地形の傾・担に応じて廊敷を
通じ、自然の形勢に順応しつつ古色ゆたかな山麓社叢を縫ふて長蛇の如く延長した回廊
は、當社に見られる珍らしい景観である。
この回廊の沿革については、天正六年(1578)から同十七年に至る棟札が二十七枚保
存されてゐるので、天正年間の再建である。その後、江戸時代にたびたび修復してゐる
が、當初の規模・様式を踏襲して今日に至つたことは確實である。
その他の建物は次に列𢸁するとほりである。
種 類 構 造 床面積(m2)
齋館 木造瓦銅板葺 253.77
儀式殿 木造瓦葺二階建 74.71
神饌所 木造檜皮葺平屋建 51.90
参籠所 木造瓦葺平屋建 176.55
御供殿 木造銅板葺平屋建 153.77
本宮社 木造檜皮葺平屋建 69.41
本殿・拝殿・釣殿
岩山宮 木造瓦葺平屋建 10.75
一童者 木造檜皮葺平屋建 8.93
宇賀神社 木造瓦葺平屋建 7.57
瀧宮社 同右 2.25
春日社 木造メッキ銅板葺平屋建 1.98
八幡宮 同右 1.98
大神宮 同右 1.98
祖靈社 木造瓦葺平屋建 17.61
社務所 同右 301.88
前殿 同右 189.44
舊社務所 同右 301.88
文書庫 木造瓦葺二階建 24.38
寶物庫 同右 24.33
【 古墳・祭祀遺跡 】 吉備津宮の背後の山上に茶臼山と称する前方後圓墳がある。
南北一〇八間、東西五七間の巨墳である。土地の人々はこれを御陵とか御廟と呼んで
ゐたが、明治七年、宮内省(現杵は宮内庁)の所管となつて「大吉備津彦墓」と改称さ
れ、現在に至つてゐる。前方部は南面し、はるかに兒(児)島湖や四國を望み展望に
富んだ景勝の地である。
【 寳物・文書・記録 】當社は大社として國寶の社殿を有する古杜であるが、その割に
は寶物は少ない。いま當社の寳物目録に從つて、その主なるものを左にあげ、若干の
説明を加へておく。
○棟札
延文二年(1357)の「南随神門棟札寫」
康安二年(1362)の「随神門上棟記録」
応永三十二年(1425)の「正殿御上葺棟札寫」
享緣三年(1530)の末社「一童神社棟札寫」
天正十九年(1591)の「南随神門棟札寫」
慶長三年(1598)の『本地堂棟札寫」
元和二年(1616)の「正宮上葺棟札寫」
などのほか、
天正年間の回廊棟札約三十枚、
明和六年(1769)の「本殿修造棟札」(國寶)、
弘化三年(1846)の「本殿修造棟札」
などが傳存してゐる。
○境内圖(図) 江戸時代に作られた数葉の境内圖がある。享保以前に浩られたもの
には、三重塔・鐘樓・求聞持堂が描かれ、神佛混淆(こんしょう)時代の當社の昔を
しのぶことができる。幕末の嘉永年間と明治十三年に作られた版畫(画)の境内圖も
ある。
○古文書 建久四年(1193)の「神主賀陽朝臣某譲状」を最古とし、中世文書
約二〇〇通、それに近世文書が多数残つてゐる。藤井駿が編集した『吉備津神社文
書』に三五七點、その続篇に五七點を収載してゐる..
○朱印状 徳川將軍朱印状、慶安元年(1648)の三代將軍徳川家光の朱印状を初め
歴代將軍の朱印状がある。
○連歌一巻(岡山縣指定重要文化財) 応永八年(1401)正月、前駿河守之光が法樂の
ため一萬句の連歌の発句を奉納したもの、
○高麗版一切経(岡山縣指定重要文化財) 約九〇〇巻、桃山時代備中の豪商坂田丹波守
が奉納したもの。江戸中期までは當社境内の一切維堂に納められてゐた。
○墨繪の馬額 鎌倉時代の作品と見られる繪馬である。
○虎繪の額 圓山應擧(円山応挙)の筆である、
○風月燈籠 古拙風雅な鐵製灯籠である、江戸時代の文入茶人の間に喧傳されたもの。
○狛犬一封(岡山縣指定重要文化財) 正宮の中陣の東西の入口に置かれてゐる。
社傳では運慶作といふが、鎌倉後期か南北朝の頃かといはれる。當時の優品であると
されてゐる。
○鬼面一面(岡山縣指定重要文化財) 鎌倉期の作といはれる。
○古面十一面(岡山縣指定重要文化財) 平安末から鎌倉初期にかけて當社の迎接會
(ゴウジョウエ)に用ゐられた菩薩面と考へられてゐる。
○銅鐘一個(國指定重要美術品) 永正十七年(1520)卯月九日、社務代生石兵庫助奉納
の銘文がある、
このほか、刀剣・樂器などがあるが、省略する。なほ、岡山市一宮に備前國一宮の
吉備津彦神社(元國幣小社)があり、廣島縣芦品郡新市町宮内に備後國一宮の吉備津神社
がある。ともに式内社ではないが、王朝以來の古社である。祭神は吉備津神社と同一で
ある。古く當社から分祀されたものと考へられてゐる。
以 上 ( 完 )