「 東大寺サミット in 岡山 半年前イベント 」 in 瀬戸公民館

昨日、7/26(日)瀬戸公民館にて、

「 東大寺サミット in 岡山 半年前イベント 鎌倉期 瓦の故郷を偲ぶ 瀬戸・万富の集い

が、開催されました。テレビ、新聞でも取り上げられました。

「 東大寺サミット in 岡山 」は R9年1月24日(日)、ハレノワで開催されます。

また、企画展として、岡山市シティーミュージアムにて、

R8,12/12(土)~R9,3/14(日)「重源と栄西ー東大寺復興に挑んだ岡山ゆかりの人ー

が開催されます。

東区を盛り上げるイベントになりそうです!

 

さて、「 半年前イベント 」 は、

・ 活動発表「東大寺サミットと私たちの未来」瀬戸中学校 生徒会の皆さん

  『 何故、東大寺の瓦が、遠く離れたここ万富で生産されたか? 』という観点から

  若い魅力ある発表がありました。大した取り組みです!

  これからも、瀬戸中として、世代を継続してもらいたいです。

  また、将来、考古学に進む生徒さんが現れることも期待されます!

・特別講演「東大寺の再建 瓦は語る」帝塚山大学教授 清水 昭博 氏

  ( 清水氏:考古学者。手塚山大学文学部教授、同考古学研究所長、同付属博物館長、

   奈良国立博物館客員研究員、奈良県立橿原考古学研究所共同研究員 )

  万富東大寺瓦に関しては、『 付け焼刃 』 との事でしたが、大した切れ味です。

  今まで、聞いた事の無い切り口から、大変興味あるお話でした。

 

さて、「 万富東大寺瓦窯跡 」 は、昭和2年に国指定史跡となり、

100周年との事。 しかし、その間何がなされたのでしょうか?

万富 東大寺瓦

「岡山市立埋蔵文化財センター」の定期講座でも、拝聴したことがありますが、

土中の『 窯跡 』 を発掘し保存する事は、大変だと思います。

 

ところで、「 万富東大寺瓦窯跡 」を語る際、もう少し視野を広げて考えることも

出来るかと思っています。

・ 備前福岡の市 : 万富の地は、中世には「福岡千軒」と呼ばれて栄えた、山陽道

   第一級の商都に隣接する事。(千草小学校の学区「 大内 」 は、その一部か?)

  『 福岡 』 は、吉井川の氾濫により、右岸から左岸になった事、

         宇喜多直家が、商人を岡山城下に移住させた事

  から、存在感は薄く感じますが、「 中世 」 を考える時には重要です!

  万富の地を考える時、「 吉井川 」 は、もちろん重要ですが、

  「 山陽道 」 も重要です。多くの人々が働く為には、その生活がありますから!

・吉岡廃寺の存在:瀬戸町塩納大久保(森井池の東側周辺)に、白鳳時代後期に

  創建された。「 瓦窯跡地 」 の数km西部です。

  吉備地方の中でも、上道郡( +磐梨郡 ) が、郡堺を越えて備前国の中心地で

  あった事が分かる。

・邑久古窯跡群:隣接する邑久郡に存在し、古墳時代から平安時代にかけての

  須恵器窯跡で、中四国地方最大の生産地。ここから、現在の備前焼に発展したと

  言われている。「 吉岡廃寺 」出土の瓦についても調査が必要と思われますが、

  古代よりこの地は、焼物の最大生産地であったという事実。

  「 万富瓦窯 」 の職人たちは、何処からやってきて、何処に行ったのか?!

 

さらなる、研究が望まれます。( Yamane の領域では、無いですが )

 

追)更に、備前東部( 旭川以東 )と飛鳥(ヤマト王権)との関係は? 

  前方後円墳・物部氏、等々

  ( 「 浦間茶臼山と箸墓古墳との相似性 」について言及されましたが。)

  ただ、ここまで範囲を広げてしまうと、少なくとも中学生の地域研究では

  なくなります!

 ※「飛鳥・藤原の宮都 」は、昨日ユネスコの世界遺産員会で、「 世界文化遺産 」 に

  登録されることが正式決定しました。

 本来なら、清水昭博氏は、彼の地で忙しかったでしょうが?!

 

『 現代語訳 備前軍記 』山陽新聞社

昨日、操南公民館の「 操南・岡山をもっと知ろう会 」にて

テーマ:「 軍記物を読む 」( “ 備前軍記 " 岡山の戦国時代 ) を聴講しました。

なんと講師は「 内池 秀樹 」さん! 『 現代語訳 備前軍記 』 監修者本人です!

我々シニアにも分かりやすく解説して頂きました。

宇喜多氏

岡山博物館では、

特別展「 宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち 」

9/18(金)~11/23(月) が開催されるとの事。楽しみですね!

   

 

2026 夏祭り西大寺 安仁神社 茅の輪くぐり

7月です!もうすぐ、夏です! 西大寺の「 夏祭り 」が始まります。

最初は、7/11(土)「安仁神社 まつり」茅の輪くぐり(夏越しの祭り)です。

10 :00 大祭神事

10 :45 茅の輪くぐりの神事

みんなで、「蘇民将来(そみんしょうらい)」と心の中で(または声に出して)

唱えながら、8の字を描くように左・右・左と3回「茅の輪」をくぐりましょう。

夏まつり西大寺

 

 

ところで、「夏まつり 西大寺」でのイベントは、『 山陽新聞社  』の

「まいられぇ岡山 行事カレンダー」には掲載されていません。( 7月分は)

https://static.sanyonews.jp/files/town/mairare/2026/202607.pdf?_gl=1*1rbkl1b*_gcl_au*MTkzODY1ODc4OC4xNzgyODU4Mjky

何故でしょう?

Yamane は、そこそこの問題ととらえているのですが・・・

 

千手山 弘法寺 あじさい

向暑の候 梅雨明けまではまだまだで、日差しがあると暑いです。

今日は、義母の墓参りに、弘法寺にお参りしました。

庭には、色取り取りの「 紫陽花 」 が咲いています。

紫陽花

 

「 岡山県下の奉納刀について 」 岡山県立博物館

岡山県立博物館の講座に参加してきました。

現在同館では

「テーマ展:奉納された刀と剣(令和8年6月13日(土曜日)~7月26日(日曜日))」

開催されています。

長船には、『 備前長船刀剣博物館 』もありますが、今一歩興味が湧いていません。

しかし、今回この講座で、刀剣の見方が少しわかったように思います。

 

長船派は、1590年(天正18年)の吉井川の大洪水と熊山の山津波により壊滅的な

被害を受け、以後衰退していたと思っていたのですが、その後も継続されていたのは

知りませんでした。

岡山の刀工系譜

備前の奉納刀として、下記も紹介されていました。

・幸島稲荷神社(岡山市東区)
 剣銘:備前邑久郡幸嶋村社神劔 同国長船住横山伊勢守祐平作
 /享和三年癸亥歳九月十二日 ( 刃長44.6cm享和3年(1803) )
・千手弘法寺 遍明院(瀬戸内市)
 大薙刀 銘 盛光 ( 刃長107.8cm/反り3.2cm 室町時代 ( 15世紀 ) 重要文化財 )

 

弘法寺は、「 安仁神社 」 と対のお寺です。

また、「 安仁神社 」 にも、明治8年に奉納された

「 脇指(わきざし):備陽長船郷横山祐包作 」が伝わっているようです。

2017年には、同館「備前刀 日本刀の王者」で展示されたようです。

 

岡山城歴代城主 ④ 徳川時代

関ヶ原の戦い後、多くの大名が改易・栄達します。

 

宇)宇喜多家は家康によって改易された。しかし、秀家は捕縛を逃れ、津・醍醐を

  経由して伏見から川船で大坂に下り、上方に潜伏後、同じ西軍であった島津義弘

  などを頼り薩摩国へ落ち延びていった。しかし、義弘の子:忠恒が上洛し家康と

  対面したとき、秀家潜伏が明かされる事となった。

 

秀秋)宇喜多秀家の領国接収のため、10月半ば岡山城を接収したとみられる。

   このとき、備前に残っていた宇喜多氏の家臣による抵抗はなかったようだ。

   しかし、慶長7年(1602年)岡山城で享年21歳で死去した。

   尚、秀秋の旧領地:筑前には、黒田長政が入部し、「 福岡城 」が築城される。

 

池)輝政は、功績により37万石を加増されて52万石となり、播磨国姫路に加増移封

  され、初代姫路藩主となった。

  また、輝政の弟長吉は兄と別に因幡鳥取6万石を領した。

   小早川秀秋没後、慶長8年(1603年)輝政の次男・忠継(家康の愛娘督姫が生母) 

  が28万石で岡山に入封。

  しかし、忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主:忠雄が入部。 忠雄の没後、

  嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いと

  して、鳥取に国替えとなり、代わって従兄弟の光政が鳥取より入封した。

 

 宇喜多詮家(直家の異母兄弟:忠家の子。宇喜多騒動で、秀家から離反)  

  東軍に参加し、戦後その功により石見国津和野に3万石を与えられ、津和野藩を

  立藩。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ

  以降、坂崎直盛と名乗るようになった。元和元年(1615年)の大坂夏の陣による

  大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出

  したが、その後の千姫事件にて改易となり、宇喜多氏は滅亡した。

 

岡山城歴代城主 ③ 関ヶ原の戦い

「 関ヶ原の戦い 」での布陣は次の通りです。

池田輝政は、東軍ですが、本陣とは遠く東部。毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊の

押さえです。相手は、戦う気の無い毛利勢です。

宇喜多秀家と小早川秀秋は、西軍。当然、近くですね。そして、秀秋の裏切りです!

さて、関ヶ原に至る経緯は・・・

関ヶ原

・ 七将襲撃事件:慶長4年(1599年)

  朝鮮出兵において、石田三成は軍目付の統括に当たっており、武功派の矛先は

 三成にも向けられるようになった。、その後文治派の官僚グループの主要人物で

 あった事から、武断派と文治派の対立も強まることとなった。

  慶長4年(1599年)閏3月3日、大坂の前田家屋敷で利家は病死した。この夜、

 武断派の主な武将たちは前田家屋敷から辞去しようとする三成を討つため、待ち構え

 ていた。しかし、三成はそれを察知し、密かに脱出し、佐竹義宣の協力を得て一旦

 宇喜多秀家の屋敷に逃れた後、閏3月4日に伏見に向かった。

 主な武断派武将は、「福島正則」「加藤清正」「黒田長政」「細川忠興」「浅野幸長」

 「加藤義明」「池田輝政」「蜂須賀家政」「藤堂高虎」。

  この時、伏見城内の自邸に籠城した三成に、家康の仲裁に入ったとも言われる。

 閏3月9日、伏見城を包囲した七将が三成を攻めようとしたが、七将が武装を解除して

 包囲を解くことと引き換えに、三成の政務退任と佐和山での隠居が決定された。

 

・宇喜多騒動:慶長4年(1599年)末から翌慶長5年(1600年)

  前田利家の家臣であった中村次郎兵衛が宇喜多家中で専横をはたらいたために

 殺害され、70人ほどの家臣が宇喜多家から離散した。慶長5年正月に徳川家康が

 断し浮田左京亮(宇喜多忠家の子。後の出羽守 坂崎直盛)、戸川達安、岡越前守、

 花房秀成は宇喜多家の領国・備前に下った。

 

そして、「 関ヶ原の戦い 」に

・ 関ヶ原の戦い:慶長5年9月15日(1600年10月21日)

 宇)秀家は伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、伊勢国長島城を攻撃した

   のち、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても

   西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い敗走。

 秀秋)慶長5年7月18日から8月1日にかけて行われた伏見城の戦いでは、西軍として

   参戦していたが、その後、伊勢方面攻略軍に加わらず、京都や近江に在陣し、

   一人戦線を離れていた。9月14日、東西両軍決戦の前日に当たるこの日、秀秋は

   突如として、美濃関ヶ原の南西にある松尾山城に入城し、山に布陣した。

   正午頃、秀秋は松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。

 池)輝元は、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、本戦では毛利秀元

   や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。