ところで、『安仁神社』は何故、「二ノ宮」なのでしょうか?
『ウィキペディア(Wikipedia):安仁神社』によると、
<平安時代後期に編纂された延喜式神名帳では備前国では唯一の名神大社に列せられている。
元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年における天慶の乱において当社が藤原純友方に
味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。
その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市一宮)に移ったと伝えられる。>
この記事は、「IPアドレス:219.63.108.250」さん、<2006年6月19日 (月) 16:36> の変更によるモノです。
この記事の検証をしてみたいと思っておりますが、良く分かりません。
でも、少し表現的には違うと思います。たぶん、
→ 藤原純友方に味方したため、その地位を朝廷より剥奪されたとされ、
天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の名神大社である「吉備津彦神社」を優遇し、
『吉備津神社』と改称し「備前・備中・備後」三国の一ノ宮とし、
摂社であった「朝日の宮」に「吉備津彦神社」の社名を移し、備前国との境とし、備前一ノ宮とした
これが正解ではないでしょうか?