安仁神社の祭神 ② → 秋篠安仁

祭神がよく分からない、安仁神社の祭神について、「邑久郡誌」で、次に解説されてされているのは、
参議「秋篠安仁」です。
通常は、『安人(やすひと)』で、「安仁」ではありません。

邑久郡誌での反論は、①秋篠安人をこの地に祀る必然性、②姓名の内、姓ではなく「名前」を冠する神社はない、の2点です。

Wikipediaでは、
 秋篠 安人(あきしの の やすひと)天平勝宝6年(754年) - 弘仁12年(821年)2月10日)は奈良時代から平安時代にかけての貴族。父は土師千村(宇遅)。
もともと土師宿禰の姓で平城京郊外の秋篠に居を有していたが、782年には朝廷より「秋篠朝臣」の姓を名乗る事を許されている。土師宿禰氏は桓武天皇の母方の祖母の出身氏族。

桓武天皇より命を受け「続日本紀」の編纂に携わり、805年に参議となるが、伊予親王の事件に関与したとされて一旦は失脚する。後に左大弁、左兵衛督などを歴任し、815年には従三位に昇った。嵯峨天皇のときには「弘仁格式」を手がけた。


邑久郡では、
然らば次の説たる秋篠安仁を祀るものなりとの説を窺ふべし。この説たる寸簸之地理の著者たる土肥経李によって紹介せられたり。その説に曰く
 邑久郡藤井村に鎮座せる式内の神、殊に名神大社といふは國中此一社なり。承和八年に備前國安仁預名神と、続日本紀に見えし。然るに其の祭神未詳今案ずるに参議從三位秋篠安仁卿を祭りし神なるにや。此安仁卿は從四位下土師宇遅の男也。弘仁三年正月参議從四位下にて備前守に任ぜられ、 同六年正月十日に至る此時に参議文屋綿麻呂卿中納言に任ぜられし時、又安仁卿参議從三位にて備前守に復任あり。同十一年正月上表して致仕し同年十二月上表して骸骨を乞うて是を許し、其の明 年即十二年正月十日安仁卿七十歳にて薨ぜし由公卿補任に見えし。此卿は徳有し人にて此國の民したひければ再任もありしにぞ。故に薨後其の徳を慕ひ尊みて此所にうつし祭りて安仁神杜ご崇奉りしにぞ有べき。弘仁十二年薨ぜしより二十一年を経て承和八年に名神に預るご國史に見えし。其の年序略叶えるが如し.

この説によれば安仁神社の社號は秋篠安仁より起りしものにして、其の祭神たる秋篠安仁は備前の國守にして謂ゆる良二千石抱るより.人民に尊敬せられ途にここに奉祀せらたるものなるべしとあれども、仔細に考ふる時は然るに似て未だ必ずしも然らざるなり。若して果たして秋篠安仁をを祀り居らんには其の社號は安仁と謂はんよりも寧秋篠と謂はざるべから。古來氏を呼ぶは敢て無禮とせざるも、名を呼ぶは無禮として之れを咎めたり。菅公を祀りたる天満宮を菅原神社といふことは其の例少か
らざるも道真神社といふは未だ聞かざるなり。況や當時祭祀の禮典は甚嚴にして天神地祗及皇子皇族を祀る外、人臣たるものを神に祭りしことは決して先例のなきことなり。秋篠安仁が如何に國民の人望を得たりとするも、國史には具体的に共の事蹟を傳へず、假りに数歩を譲りてこれを神として祭りたりとするも、二十年の後に名神大に列するが如き特典を輿ふることは祭祀を粛める常時の状況より考ふるも極めて信を描き難しとす。夫れ経年は備前に於て最國史に精通せる大儒にして、其の湯淺常山と問答せる「湯土問答」の如きは、如何に彼が博覧多識なるかを知るに足る。彼にしてこの説あることぞ其の他を怪まんや。