吉備津彦命 = 彦五十狭芹彦命,若日子建吉備津彦命(稚武彦命),吉備武彦
についてその行動を詳細に抽出されているが、少々解(げ)せぬところがあります。
孝霊天皇時の吉備国平定では、陸路・海路のどちらにしても、「 大伯国 」 が
見られません!
( 岡山県赤坂町「片山神社」の記録に、若健吉備津彦は播磨から陸路を通ってこの
片山神社の地を通過し、吉備中山に到着したとなっている。
岡山県妹尾の明神崎に海路やってきた吉備津彦が最初に上陸した地と言い伝えられている。)
吉備武彦の子孫たち県主も、吉井川以西・大伯国以西です。
大伯国は、「 吉備国 」 とは、少し異なるようです。
※『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神朝に神魂命の7世孫である佐紀兄尼命を大伯国造に定めたとされる。
神魂命は、別天津神・造化三神のうちの一柱です。系統が異なります。
応神天皇の吉備へ行幸も、「 9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に
吉備の葉田葦守宮に至った。」と、大伯国は、既に庭の様です。
(行幸ではなく、吉備帰郷 との説もありますが!)
ますます、『 大伯国は、物部氏の出地 』 が想起されます!