応神朝以降は、『 吉備氏 』記紀への記載も多くなります。
海部氏については、朝鮮にわたるなどヤマト王権に貢献していることが分かりますが、
上道臣・下道臣については、不幸が続きます。大和王権からの圧政が伺えます。
牛窓には前方後円墳が築造されていますが、海部氏の名は、それから読めません。
「 吉備海部直羽嶋 」 は、倉敷ではないでしょうか?
吉備上道臣の「吉備の山部を奪った」は、石上布都御魂神社周辺でしょか?
明らかに『 鉄資源 』が目的ですね。
磐井の乱には、吉備海部氏も動員されたでしょう!
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・『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神朝に神魂命の7世孫である
佐紀足尼命を大伯国造に定めたとされる。(大伯国海部は大和王権直轄になる)
果たしたと伝える。(日本書紀、景行40)
・兄媛(吉備武彦の娘)が里帰りし、行幸した応神天皇を、御友別らの吉備一族が
葉田の葦守宮で供応し、「県(あがた)」に封じられたと伝える。
(日本書紀、応神22)
・吉備海部直の娘黒日売を愛した仁徳天皇が、故郷に帰った黒日売のあとを追って
吉備に来て、山方で饗応を受けたと伝える。(古事記、仁徳段)
・吉備下道臣前津屋、雄略に対する反乱をはかるが密告されて族滅されたと伝える。
(日本書紀、雄略7 : 463)
・吉備海部直赤尾、新羅討伐と歓因知利よりも優れた技能を持つ技術者を百済から
献上させ、日本に連れてくることを雄略天皇から命令されている。
・吉備上道臣田狭、妻を雄略に奪われ、任那に依って反乱をはかるが果たせず。
・吉備臣弟君、百済から漢手人部・衣縫部・宍人部らを連れ帰り献じたと伝える。
(日本書紀、雄略7 : 463)
倭王武、宋に遣使して上表し、将軍号を与えられる。
( 478 )
・吉備臣尾代が率いていた蝦夷の蜂起を鎮圧した。(日本書紀、雄略23:479)
・雄略の死に際して、吉備稚媛が所生の星川皇子を皇位につけようとしてクーデターを
起こすが失敗する。これを応援しようとして吉備上道臣が軍船を興すが、星川の死を
知ってやめた。即位した清寧は罰として吉備の山部を奪ったと伝える。
(日本書紀、清寧即位前紀)
海浜の製塩集落が拡大、各地に大遺跡を残す(牛窓町、師楽遺跡など)
津山市佐良山古墳群。
美作地方を中心に土師質陶棺が広がる。牛窓町波歌山古墳。
馬具の出土が多くなる。
よって鎮圧(継体22 : 527)
美作地方を中心に土師質陶棺が広がる。牛窓町波歌山古墳。
備後国に後城・多称・来履・来稚・河音の屯倉を設置したと伝える。(安閑2 : 532 )
・任那府臣の地位にあった吉備臣が、任那復興策に関して聖名王と対立する。
(欽明5:544 )
・蘇我稲目らを遣わして吉備の5郡に白猪屯倉を置く。(欽明16 : 555)
・蘇我稲目らを遣わして児島屯倉を置き、葛城山田直端子を田令とする。
(欽明17 : 556)
・胆津を遣わして白猪屯倉の田部の丁籍を定める。胆津に白猪史を賜姓し田令と
する。 (欽明30 : 569)
横穴式石室墳が普及。
各地に群集墳が形成され始める。
・吉備海部直難波,高句麗からの使者を送る使いとなったが、任務を放棄し、虚偽の
報告をしたため、翌年7月に処罰される。(敏達2 : 573)
・蘇我馬子、白猪屯倉と田部を増益し、田部の名籍を胆津に与える。(敏達3 : 574)
・吉備海部直羽嶋、百済の日系官人の日羅の招聘に成功する。日羅らを児島屯倉で
慰労。(敏達12 : 583)
総社市こうもり塚古墳、岡山市牟佐大塚古墳、真備町箭田大塚古墳が築造される。
岡山市八幡大塚2号墳、牛窓町二塚山古墳。久米町 大蔵池南たたら。
方興寺建立。蘇我馬子発願の日本で最初の
本格的寺院。( 588 )
群集墳の築造が終焉に向かう。 前方後円墳廃絶。