安仁神社の歴史 古代~中世 <『yamane』の私説>

古代~中世にかけての「吉備」の歴史を考えてみました。あくまで<私説>ですが・・。

3世紀:邪馬台国に象徴されるように、集権国家の初期形成期であり、九州と畿内をめぐり
大陸の勢力と結びついた九州系の海部氏が瀬戸内海でも勢力を広げる。
これは、「神武の東征」や、「邪馬台国畿内説」からも推測できる。
吉備の穴海の中で、絶好の軍事拠点であった藤井を、海部勢力が拠点としたのはこの時期からであろう。
4世紀中期:上道氏が吉備中央部に勢力拡大し、吉備国を統一する。(「吉備西征」=桃太郎伝説
大和の豪族(葛城氏ら?)とも同盟関係となり(もうひとつの桃太郎伝説四道将軍の一人五十狭芹彦の、吉備国平定)、河内王権の誕生可能になる。
藤井の海部は、上道氏の直属海軍として、瀬戸内海の制海権を握る。
このころ、安仁神社が、現在の宮城山頂上に移設される。
4~5世紀:大和政権の確立と、吉備国との蜜月期。(ヤマトタケルの母、播磨稲日大娘。ヤマトタケルの妃、 吉備武彦の娘。そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となった。 吉備武彦の子の鴨別の、仲哀天皇熊襲征討功績。 応神天皇の妃、兄媛。仁徳天皇の妃、黒媛)
安仁神社の海部海軍の強大化。安仁神社祭神である「もうひとつの吉備津彦神」の強大化。
吉備津彦神社の祭神は本当は征服された「温羅」部族である。)
5世紀後半:大和政権の吉備への圧迫による、吉備雅姫と吉備上道臣らが、大和朝廷に反乱し敗退、
弱体化が始まる。吉備政権の吉備中央部(吉備津地区)への移動。
6世紀前期:吉備での製鉄拠点であった山部の略奪。(石上布都之魂神社の物部氏
6世紀中期:吉備東部海岸部への大伯国設置により、制海権の略奪。
吉備への白猪屯倉・児島屯倉の設置。
安仁神社の海部海軍は、大伯国造「神祝命の七世孫の佐紀足尼(すくね)」の支配下になり、祭神である吉備津彦神抹殺の画策により祭神不明に。
虐殺された将軍達を祀る、「左補神社」「右補神社」の設置。
しかし、民衆は其の業績を忘れてはいない。
7世紀後半:吉備国備前・備中・備後の3国に分国され、吉備大宰が置かれる。
8世紀初期:備前国の北部6郡を割いて、美作国を置く。備前(旧上道氏領)は、いじめられっぱなしです。

かくして、安仁神社の祭神は忘れられてしまいます。
備前鎮守府としての記憶のみを残し。