邑久郡の渡来人 と 古代の湊?

安仁神社の北にある、「阿知村」は、「阿知使生」を由来としていると考えられます。
「阿知使生」は種々の大陸の技術を伝えた渡来人ですが、邑久郡にその足跡を見ると、
何故か「長船町」に、「服部」「土師」「須恵」等を見ることが出来ます。
牛窓町の「師楽」も、渡来人の気配を感じます。
長船町から、阿知村は少し離れています。
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ここからは、『yamane』の私見で未検証ですが、
古代の湊の位置関係が関係しているのではないでしょうか?
邑久郡=太伯国造」は、上道氏への牽制の為に大和朝廷より配された「海部」による県(あがた)だと思います。その政治の中心は上道氏の拠点から直接接しない「邑久郷」であり、その周辺に「民間の交易港」・「軍事港」があったと推測されます。
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阿知地区~邑久郷の間は、民間の交易港。
南部の安仁神社から正儀に至周辺は、軍事地区(海部地区)では無いでしょうか?

その当時、上道氏の湊は、古都(→古津)、吉備の中心は、吉備津(津=湊)でしょう。