山南四ヶ村。太伯村

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「藤井村」のある、山南中学校区は、かって「太伯村」幸島村」「朝日村」「大宮村」の4ヶ村からなっていました。
「太伯村」の由来は、『大伯(おほく)郡』です。

『国造本紀』には「大伯国造」と記され、藤原宮跡出土の木簡には「大伯評」「大伯郡」と表記されています。
「大伯」から「邑久」に変わったのは『続日本紀』によると、
和銅6(713)年に国郡郷名を「好字」で表記されるようになったことによります。
『大伯国造』は、6世紀になって上道氏に対して(星川皇子の乱の後始末として)、非吉備系国造をおいたとの説もあります。

邑久郡誌でも、「太伯國造考」には國造の館ありしは今邑久郷(太伯村)より藤井・阿知(大宮村)の間なるべし古塚など多し。 とあります。

大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも表記)は、斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯の海の上を通過している時に誕生した。
といわれていますが、大伯の海なかで、もっとも波穏やかで、近くに軍港を控えているが、太伯村南の湾内ではないでしょうか?
 今は江戸時代の干拓により「幸島新田」になっていますが。

もちろんここで、『 軍港 』は「安仁神社」です。