安仁神社の祭神 ③ → 天照大神!!

祭神がよく分からない、安仁神社の祭神について、「邑久郡誌」で、解説されてされているの中に
なんと天照大神がいらっしゃいます。
この説は、寛文十年(1670年)三月国主池田綱政より安仁神社に納めたる文書に見えます。
残念ながら、国主様にはお気に召したかもしれません。
寛文七年(1667年)池田光政侯は、再興造営大に力をかしておられます。


次の通りです。

 謹上再拝、夫安仁神社は天照大神をいはひ祭る一國の大廟にしていんさきひじりの御代には、奉幣 例幣など捧げられしとふるき文に見え侍れば天下の蒼生みたまのふゆをかうむらずといふことなし。中古より國々の大社の勅使もなく當宮もその例たえて、四時の祭禮新嘗相嘗行はれず、かたそぎの千木もそれならねば、社名をだに知人なし。あゝなげくにあきたらず、今、綱政いにしへの道 を神明のあまねく萬民を守たまひ、霊応あきらかなるを聞き傳へ、心にもとめし宿願の事和漢その ためしあまたなれば、大神に二なく唯一のまことをもっていのるもとより神は非禮を受けす。正直 のいただきにやどりしとなれば、ねがひのままに神徳をはげまし給へと神代の古風をあふぎ、愚な る口に三十一字の言の葉をつらね、神慮を動かし奉る感じて通す、これを神といふ説あれば、和光 昏迷にかかげ社號の徳を施し、仁を安んじ令子を授けたまひ、子孫を繁く昌に、皇親の神威速なる 時は、霊宮瑞籬弄殿鳥居等、新に造建し奉らむと、精誠抽てこれを禱物ならし。
       從四位下侍從兼伊豫守源朝臣綱政上
   ゆふだすきかけてぞたのむ皇親の普く照す神の御蔭を
寛文十年三月吉辰

右は綱政の願文なれは別に考謹めきたるものにあらざるも、文中安仁の神社は天照大神をいはひ祭るとあれば、當時の祠官等は祭神を天照大神となし、世にも斯く信じたればこそ、かく國主の願文にも記されたるなるべし。これ大なる誤にしてここにこれを辨するの要はなけれども、世には岡山の伊勢神社を豊受大神を祀れるものなりと云ひ、津山の徳守神社の祭神を天照大神ご信ずるものもあれば、斯る妄説を信ずるもの亦必しも無きにあらざるべければ、一言の意見をここに陳ぶべし。
既に前にも陳べし如く大廟は皇室の租廟にして皇室の親しく祭らせ給へる御社なれば、古より皇族を祭主ごなし給ひて、かりにも臣下のこれを祀ることを許され給はざりき。
されば天暦の太政官符にも明かにこの事を臣民に知らせ給ひて、豫め其の借越の弊を防ぎ給ひしことは人の能く知る所なり。
(勿論皇室の祖神として国民のこれを禮敬することは當然なりとす)然るに後世に至りこの禁制の趣旨を忘れて臣民の氏神としてこれを祭るに至りしは、かへすかえすも僣越の甚しきものと云ふべし。されば祭祀を粛める平安朝の初代に當りてこの趣旨に反して天照大神を祀らせ給はしむるが如きことは、到底あり得べからざるのことなりとす。