「 日岡神社( ヒオカジンジャ )」 加古川市加古川町大野1755
延喜式では、賀古郡 一座小
下記の説がありますが、真偽は如何に?! 吉備国の民としては、気になります!
『 古事記孝靈天皇の段に、孝靈天皇御子大吉備津彦命 與 若日子建吉備津彦命二柱
針間氷河前居(古へ氷岡と書、後改めて日向と書)贈正一位の改作とも考へられる。
(中略)
吉備津彦は四道將軍の一人であり、この地方の勢力者であつた。又吉備津彦は別名
日本書紀に五十狡芹彦命(いさぜりひこ‐の‐みこと)といふから、
祭神伊佐々比古命(いささひこのみこと)は吉備津彦命をさしたものであらうといふ説も
ある。( 郷土史家、加古川郷土文化協會主宰、元市教委永江幾久二氏説 ) 』
『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』からは、他の式内小社と同様に、
かなり複雑な経緯があることが分かるます。
主祭神 天之伊佐々比古命(アメノイササヒコノミコト)
鵜草葺不合命( ウガヤフキアヘズノミコト :神武天皇の父 )
市杵島姫命 ( イチキシマヒメノミコト:宗像三女神の一柱 )
由 緒 : 天平の時代の創建。
第12代景行天皇の皇后である稲日大郎姫命 ( いなびのおおいらつめのみこと ) が
最初のお産が難産で大変お苦しみになられたため、次に皇后がみごもられた時に、
天伊佐佐比古命 ( あめのいささひこのみこと / 当神社の主祭神 ) が七日七夜祖神に
安産を願い、無事双子の皇子を御安産なされました。
その言われから当社は安産の守り神として、今日も近郷より大勢の参拝者があとを
たちません。
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『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』( 松崎正輔 日岡神社宮司 ) では、
【社名】五條家本並びに中院家傳に(略)播磨国五十座(大7座・小43座) 加古郡
一座小「日岡坐天伊佐々比古神社」とある。
『神祇志料』に、「日岡坐大伊佐々比古神社 中略 「日岡大明神」と云ふ。
『三才圖檜』『名帳聞書』『神社藪錄』に、天伊佐々比古神を祭るとあり、『國内鎭守
大小明神社記』に小社百五十社 賀古郡二社、鎭守日向杜、伊佐々別尊大明神と称へ
られ、更には中世播磨風土記に、鎭守日向杜となり、又『峯相記』に日向大明神と
称へられてゐたことが記され、更にまた江戸時代に日岡大明神と古名にもどされたが、
後又、日向大明神と称へらるる様になり、また日岡神社となり現在に至つてゐる。明治
七年二月郷社に列せらる。現今なほ「日向さん」「大野さん」「日岡さん」等と呼ば
れ、里入に尊崇敬愛されてゐる。
『神社調書』に天正六年(1578)兵焚に罹り、旧記焼失せるにより、創立年月不詳なれど
も、天平二年(730)の創立と傳へ、延喜式の制、小社に列し、日岡坐天伊佐々比古神社
と称せられ、江戸時代武門の崇敬を受け、板倉京都所司代より黒印領を得、之より先、
慶長七年(1602)池田輝政の命を奉じて、若原右京亮制札を寄せ、同六年(1601)五石の
黒印領を捧げたり。「播磨鑑』に「正一位日同大明神。 北条郷大能村、板倉伊賀守
御証文社領五石とあり。
又孝靈天皇御子大吉備津彦命 與(与;と)若日子建吉備津彦命二柱 針間氷河前居
(古はと氷岡と書。後改めて日向と書)。賜正一位。承應元年(1652)九月、松平式部
大輔(姫路城主)社参あり。下向之後、延喜式神名式考之曰有播磨賀古郡一座。日岡坐天
伊佐々比古神社、日向大明神。今考神名式有日岡無日向、「岡」與「向」音相同字
相似。蓋日向之誤(か)と有。暫時日岡大明神と相唱せしが、又古名に復りて日向大
明神と號し奉る。明治以後日岡神社と改称す。土地近郷の入は「日向さん」と称する
人多し。
【所在】鎭座地は現在、兵庫縣加古川市加古川町大野字日岡山1,755番地である。
『播磨鑑』には、北條郷大野村。『特選神名牒』には、北條郡大野村字目岡(明治大正
の頃、加古郡氷丘村字大野)。『神祇志料』には今、賀古川南大野日岡に在り、とある。
國鐵加古川線日岡駅下車、北500メートル、徒歩約五分。當社より西約500mの處に
一級河川「加古川」を望み、また(當社は)景行天皇の皇后、稻日太郎媛尊の御陵
「日岡山陵」の麓に在る。
【祭神】本社の祭神は、現在主神に天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)、
相殿に天照皇大御神、豐玉比賣命、鸕草葺不合命、市杵島比賣命 の五柱を祀つて
ゐる。『播磨鑑』には、正殿 玉依姬命、左 鸕草葺不合命、右 伊佐々彦命の三神に
なつてゐる。
神社は天正六年(1578)に兵焚に罹り、旧記等を焼失したので、祭神なども變化する
ことになつたかも知れない。
一説に、神武天皇御東征の折、荒振神が悪行を催し、道中をなやませた。御謀まち
まちなる折、國津神、伊佐々邊命が荒振神を亡す謀を奏し奉り、たやすく退治すること
が出來た。しかし、伊佐々邊命は戦死したので、天皇は大變その死を悲しまれ、戦勝を
祀られた御祖神玉依姫と葺不合命の二神に、伊佐々邊命を配して三神として祀られたと
いふ。中世までの祭神は、この古傳と一致するやうである。
ところが古事記孝靈天皇の段に、孝靈天皇御子大吉備津彦命 與 若日子建吉備津
彦命二柱 針間氷河前居(古へ氷岡と書、後改めて日向と書)贈正一位の改作とも考へら
れる。
正史にも書かれてゐるやうに、景行天皇は播磨の稻日太郎姫を皇后とされたのである
が、その稻日太郎姫は吉備臣の祖 吉備津彦の女であつたといふ。
吉備津彦は四道將軍の一人であり、この地方の勢力者であつた。又吉備津彦は別名
日本書紀に五十狡芹彦命といふから、祭神伊佐々比古命は吉備津彦命をさしたもので
あらうといふ説もある。
( 郷土史家、加古川郷土文化協會主宰、元市教委永江幾久二氏説 )
天照皇大御神は皇族の御祖先であり、最高貴たる祖なる故後世含祀したのであらう。
又市杵島比賣命は、神社に西接して流れてゐる御手洗川の中の島に祀られてゐたのを、
境内拡張の際に遷し祀つたとの古老の言である。
【境内社】高御位神社(大己貴命・事代主命)、恵美酒神社(蛭子命)、
天満神社(少名毘古那命・菅原道眞)、熊野神社(伊邪那伎命・伊邪那美命)、
住吉神社(上筒男命・中笥男命・底笥男命)、稻荷神社(保食命)、
大鳥居神社(天伊佐々比古命)。
【由緒】「社記」に日く抑々當杜は神武天皇東征の砌(みぎり)高嶋の行宮より摂津國
に趣ぎ玉ふ御時、雨雲、時間の國中に荒振神 神天皇に背き奉り、悪神をかたらひ、
悪行を催し、風雨頻にして御道中を悩まし奉る、御謀まちまちなる所に國津神、
伊佐々邊命(延喜式配殿伊狭狭彦命有是也。今伊佐邊村と云有 則印南郡に有此。
御神の住玉ふ所と云)と云ふ者來りむかへ奉り 彼 荒振神を亡す謀を奏し奉る。
天皇此の謀を信じ玉ひ 是に依て天皇河原に石の釜をすへ食膳を炊き玉ふ。(今此大能村
の前に田中の松の神盥(たらい)などいへる是なり。) 又河原にて御祖神を祭り玉ひ
禮をつくし玉ふ。故此處を禮河原といふ。今の一の鳥居これ也。御祖神玉依姬 葺不合
命に祀り奉ひし時□□成かな、山凧晴、日の光此の山の嶺に輝き、御祖神、顯(あらわ)
れ玉ひ、荒神を退治の旨を告げ玉ふにより此時始て日の岡目向ふ由と祝し玉ひて則伊狡
狡邊を大將となされ、たやすく荒神を退治し玉ふ(今の神野谷は荒神の住し所なりと云)
是によりて天皇祖神の恵を深く悦び玉ふ。戊午正月初午の日此所に宮を建、祖神を勸請󠄁
し奉り日岡大明神と崇め祭り玉ひ、同亥の日より巳の日に至るまで七日問齋祭し玉ふ。
( 今の齋居此例也。)ことに日向ふとの御祝有故日向大明紳と號し奉る。又御神、御子を
いとやすく御産有りし故 今に至るまで安産を祈るに其しるしあらた也。
又正月、二月、八月、九月、初午の日祭あり、是は午の年、午の日に御勸請󠄁ありし例
也。時に伊狡狡邊命 戦場の勞出しや惜哉 終に此處にて死にける。天皇大に惜ませ
給ひ 此神を配し三社とし玉ふ。則其甲冑兵具を山の東に埋め玉ふ。(金色塚の石のから
うと是也。)
『播磨鑑』又荒振神の尸(屍)を東の山野に埋め玉ふ。王塚、車塚、轅塚、勅使塚、
是也。依て伊狡々邊の子孫を祭主とし玉ふ。今の刀禰家の祖也。分て三十六人と成。
天より事治り御發足有て長田の濱(尾上町)に至り玉ひ濱磐に休み玉ひ(天の御船など云所
是なり。)二月十五日に摂津國難波の浦に着給ふ。按に今の祭禮甲冑の例及刀禰武射の
式、其時の官軍の例 平定の功を祝し□ふならん。□正月齋居満夜御神供を調へ一の鳥居
御幸の事、尤も有難き神式也。(亥巳□又忌籠と云ふ)宮殿往古大社層々として美麗目を
駭(おどろ)かす播州一の社成しがいつの頃よりか破壊し、荊蕀(けいきょく)路を
遮り参詣入も疎に成りしが承應元年(1652)辰年自正月至七月大能村糟谷昭道與次兵衛、
河原村西田道軒、溝之口村大村友軒、心を一にして再興に努力し再興す。夫より段々
繁昌して社等多く造営して今の社頭是也と有る。明治三年四月改築再建せしも再度
昭和四十四年六月十石日不審火により全焼、同四十六年現在の社復興す。
神社明細帳によると、神戸市兵庫區西出町日向神社を大正元年十一月十二日合祀濟。
現在の宮司は松碕正輔(專職)、禰宜は日岡幾朗(專職)、宮司松崎家は明治維新迄
姫路藩士なるも明治四年姫路総社の神官拝命後ただちに日岡神社に轉出拝命。今の
宮司は四代目である。日岡家は別當多聞院の後胤、四代目である。現在は、両家とも
世襲である。別富寺多聞院の所在は、加古川市加古川町大野字日岡山(日岡神社境内
東隣り)
【祭祀】一、例祭日「忌籠」一月 自亥至巳 の日、太陰暦。『神社調書』には、
「 氏子内 鳴物音曲を停止し 犬を逐ひ鶏を放ちすべて家業を止めて戸を閉ぢ耳に
つきて言語し沐浴をも爲さざりし例なりしも、現今は神前に詣で神許を乞ひ然る後
静粛に謹愼して家業に服する例となる。神職は前日海水に沐浴潔齋して社務所に参籠、
別火謹愼して奉仕す。巳の日には國家安穏五穀豐饒の祭典を営む、午の日、早朝より
氏子の者参拝して此の祭典に供せし榊(年木)御神供(年の實)を受けて持帰る。此の日
午後には「弓の禱」と云ひて射場の神事あり。此の忌籠の問に氏子内處々にて頭神事
あり、舶頭講……氏子村内集りて神前に参り神酒神供を戴き帰り村民共々にいただき
飲酒する。」とある。
『播磨鑑』には、
「 今の正月齋居満夜御神供を調へ食膳の爲一の鳥居へ御幸の事最も有難き神式也。
忌籠と云事有、正月亥の日より巳の日迄七日聞大神秘たり。社役の外 知人無し、又
「弓の頭」船頭講数多神式有り。船頭講と云は昔此神船に乗來て、來臨し玉ふ時の
船頭の後茜なりと云、三十六人の刀禰と云者當村に有て、神事の節帆かけゑぼしに素襖
袴を着し、神式を勤む、是も御神降の時の御供の者なり。」
とある。
『播磨與地通志』春正月有齋居神事「大野村誌編纂取調書」加古川町小門口(奥源之助氏
所藏)忌籠の由來は記録なく、確かならざれども一説に 稻日太郎媛命、大碓、
小碓命( 注:日本武尊 やまとたけるのみこと )御出産の際 雙(双)胎なりし爲
非常に難産にて、御産に七日を要された時、住民いたく御心配申し上げ安産をお祈り
申したのが起りと云ふ、又一説には日向より豐玉比賣並に葺不合命をお迎へした際の
鎭座祭の行事より起りたりとの二説あり。
二、秋祭『神社覺書』九月初午日・太陰暦 ( 九月の月で午の日が二日有る月は先の
午の日、同じく三回有る時は中の午を用ふ)と定む。『播磨鑑」に、「今の祭禮甲冑の
例及び刀禰武射の式、其時の官軍の例。(伊狡狡邊が荒振神を平定せし時、平定の功を
祝し玉ふならん。)」とある。
例祭日は、現在十月第二日曜となつてゐるが、此は近年氏子の勤務の關係上若入が
都市の會社勤めが多く、爲に祭禮の時の神輿かつぎの人手不足の爲と、五穀特に米の
収穫の時季が早くなつた爲に、十月第二日曜あたりが最も適當などの要望により一時
的に定む。今迄は『播磨輿地通志』によると、午日行之例祭十月二十日、『神祇志
料」凡其祭十月十六日を用ふ。(飾磨縣神社帳)氏了區域は元の加古郡氷丘村全域と
加古川町の一部。氏子戸数は約6,000戸。
【境内地】( 略 )
【杜殿】 ( 略 )
【宝物・文書】 記錄 天正六年(1578)の兵焚並びに昭和四十四年六月十五日の
不審火による火災により寶物、古文書、記錄一切焼失す。
以 上