近隣の式内社を記録してゆきたいと思います。
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旧社格 : 郷社 , 御祭神:片山日子神
由緒 : 当社は延喜式神名帳に伊勢国鈴鹿郡片山神社と同神とある。
備前国神名帳には従2位片山日子神社とある。往古現在の社地前方の神山に鎮座していたのを、
後冷泉天皇、天喜3年(1055)乙未8月、勅により現在の地に遷座したと伝えられている。
明治6年郷社に列格。明治40年1月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
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【社名】吉田家本には「片山日子神社」とあり、『大日本史』も「片山日子神社」と
訓んでゐる。
『備前國神名帳』一宮左樂頭本には「賀多山大神」、同神上金剛寺本には「正三位片山
日子大明神」、西大寺本・廣谷本・大瀧本及「國内神名位階記』山本本には「從二位
賀多山大明神」とあり、『備陽國誌』(元文四年)、『吉備温故秘録』(寛政年中)、『東備
【所在地】邑久郡長船町土師七九七番地(旧邑久郡土師村字片山ノ森、赤穗線長船駅より
一キロメートル)に鎭座してゐる。土師は古代の邑久郡土師郷にあたり、土師茶臼山古墳
群(四十基)をはじめ、甲山古墳群(約五十基)等の存在が知られてをり、また土師器丁房跡
といはれる細工原遺跡もある(昭和四十九年『岡山県遺跡地図』)。
明治初年の『延喜式内神社、國史見在之神社』には、土師は延喜式巻七、神祇七、
践祚大嘗祭の項に「凡鷹レ供ニ神御雑器者。神語曰由加物。所司具注ニ所レ須物敷。
預前申レ官。八月上旬差ニ官内省史生。遣 五國 監造 河内。和泉一人。尾張。参河
一入。備前一人。到レ國先祓後始造作。」、「備前國所レサヲケ卅。ホトキ卅口。
都婆波六十口。モタト卅口。(中略)巳豆伎卅口」などとみえる土器を造つて奉進して
ゐた里であつて、今も細工原・由那堤といふ地名として土器造りの工人等の居た跡が
残つてゐるといひ、片山日子神社は「大嘗祭の齋器物(ゆかもの)を造進せし郷中に
鎭座ありて、製作の事保護し給へるを以て當社はやくの世より官社に預り給へり」とし
てゐる。『邑久郡神社誌』(大正四年)、『邑久郡誌』(大正二年)も同様の説を載せてゐる。
近世の土師は邑久郡土師村と称し、村高一七八三石五斗三升、田畑一一二町六反七
畝、家数一九一軒、男女一、〇五八人(享保六年『備陽記』)の大村であつた。土師村は
明治二十ニ年近隣三ヶ村と合併して國府村となり、昭和三十年行、幸村・美和村と合併
して長船町となつて現在に至る。
當社はもと現社地の南にそびえる甲山(海抜一六四・○メートル)の山頂に鎭座してゐ
たが、「中世今の地へ移し奉れるよしいへり」、あるいは「御冷泉天皇御宇天喜三年
乙未八月勅により現今の地に移転せり」と傳へてをり、その山頂の旧社地跡は「峯稍廣く平にして、また奇石多し。冑懸など號けし岩、また惑應岩と云ふもあり」といふ(明治
初年『備前國式内書上考録』、昭和二十七年神社明細書)。
甲山は古く「神(カフ)山」「國府(コフ)山」の字をあててをり、これについて
平賀元義は「神山は此神(片山日子神社)の坐す故の名なり。神をカウといふは後の俗な
り。(中略)今國府山と書くは誤りなり。備前國府は邑久郡に古今無ぎ事なり」と述べて
ゐる(『吉備之國地理之聞書』)。
當社の氏子は長船町土師及び福永の地域で、明治七年の氏子戸数は二六三戸、昭和二
十七年の氏子数は一,一〇〇人、現在の氏子戸歎は一八〇戸である。
【祭神】『備陽國誌』及び『束備郡村志』には「所祭大山祇神」とあり、『古備温故秘
録』には「祭る所の神一座、天日方奇日方命と云」とあるが、明治三年の『神社明細
帳』及び『延喜式内神社、國史見在之神社』にはいづれも「片山日子神」としてをり、昭和二十七年の神社明細書では「片山日子命」とある。『邑久郡神社誌』には後記の
「吉備津彦傳承」を載せ、「片山日子神と称ふは片山に座す吉備津日子命の略称なるべ
し」としてゐる。
【由緒】前記のとほり、當社はもと甲山の山頂に鎭座してゐたと傳へられてゐるが、
その旧社地は「大吉備津日子命片山ノ假宮と定給ひ、温羅降伏の謀慮を國人樂々森彦と
冨玉臣に問給ひ、茅萱宮に発行し給ふまてまし坐シ御旧跡としられたり」(『備前國式内
書上考録』)とあつて、いはゆる「吉備津彦傳承」がある。かうした傳承は当社歴代の
宮司高原氏が備前一宮・吉備津彦神肚の『一宮社法』(康永元年六月八日)などにみえる「邑久郡土師村ノ大夫」の系譜を引き、「往古和氣郡・磐梨郡・邑久郡三郷之幣頭・
神子頭ニシテ、備前一宮毎歳六月廿八日御幡一本奉捧御田植之神事相勤申候」(明治三年
『神社明細帳』)と傳へて、吉備津彦神社と深い係はりをもつてゐたことと關係があるで
あらう。當社は明治六年郷社に列し、同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。
當社の現宮司は木鍋山八幡神耐(長船町土師字木鍋山鎭座)の宮司高原家康氏の兼務で
ある。高原氏は「先祖野見宿禰之遠孫土師大夫」が文永年中に片山日子神社の神主と
なつたと傳へ、その土師大夫を初代とし、その後胤高原菅兵衛(後和泉守)は慶長年中
「岡山城内鎮守ノ神下宮(旧号坂折大明神)」の神主を兼務してをり、菅兵衛の子甚兵衛
以後明治初年の祠官高原環まで十二代にわたつて當社及び木鍋八幡神社祠官を勤めてゐ
た(『神社明細帳」)。現宮司高原家康氏は菅兵衛から十六代目にあたる。
當社には明治初年まで祠官のほかに禰宜・神子がをり、幕末には高原幸藏とその妻が
勤めてゐた。禰宜高原家は寛文年中に初代高原勘兵衛がはじめて禰宜職に任ぜられ、
幸藏まで七代にわたつて勤めてゐた。幸藏死亡後の禰宜職は東須恵村久山千代吉が講け
持つてゐた(『神社明細脹』)。
【祭祀】當社の祭日は既祈年祭二月十七日、春祭五月十九日、秋季例祭十月十・十一日
(元旧歴八月十九・二十日)、新嘗祭十一月二十三日となつてゐる。
秋季例祭は木鍋八幡神社と同日であり、十月十一日には片山日子神社の神輿が行列を
整へて木鍋八幡神社へ行き、両社そろつてお旅所まで御神幸が行なはれてゐた。お旅所
は木鍋八幡神肚の南方百メートルの場所で、凡そ五〇坪の廣場となつてゐる。お旅所で
の神事がすむと、両社神輿はそろつて片山日子神社へ行き、次いで氏子の地域を廻つて
ゐた。御神幸は十年前から中止されてゐるが、その際には必ず「御幡(おはた)」を
出してゐた。「御幡」は数メートルの青竹の上部に二本の小竹を十文字にしばりつけ、
白布一反をたらし、先に扇を立てたものであり(近年は高さ一尺程の小型になつてゐ
る)、備前一宮・吉備津彦神社の御田植祭(現八月三日)に現在も出される「御幡」と同種
のものある。前記『一宮社法』によると、吉備津彦神杜では六月廿八日の御田植祭に
「津高郡首村ノ法者・神子・大夫」が「白布三たん」を用ゐて一本、「上道郡おたみの
法者・ミ子・大夫」「上東郡平嶋ノ法者・ミ子・大夫」「邑久郡土師村ノ法者衆・太
夫・コンカラ」が「かうぬの三たん」を用ゐて各一本、「津高郡之内かも村上下在々の
法者」が「かうぬの二たんつゝ」で二本の「御幡」を仕立て出仕し出してゐ。いつ頃か
らこれら各地の法者・大天・神子等が出仕を止めたかは明らかでないが、「土師村ノ大
夫」の系譜を引くと傳へる高原氏が代々宮司を兼務してゐる片山日子・木鍋八幡両神社
では最近まで秋季例祭にその「御幡」を仕立ててゐたのである。
【境内地及び社殿】社地は土師の集落の西端、千田川の右岸にあたり、明治初年の境内
反別は五畝八歩、現在は五〇二坪となつてゐる。本殿は奥行・聞口とも各二間、千鳥破
風・唐破風付入母屋造り、檜皮葺。この種の社殿は備前には少なく、備中に廣く分布する建築様式である。幣殿は三坪六合、瓦葺。拝殿は八坪七舎、瓦葺。釣殿は五坪、瓦
葺。随神門は二坪五合、瓦葺となつてゐる。本殿の東に末杜稻荷紳耐、西に木野山神社
がある。
【遺物・寳物】寳物として甲冑三領・鏡一面(『邑久郡神社誌』)。境内入口に江戸末期
頃の豊島石製鳥居があり、その前の手水鉢には「寛政五癸丑八月甘日」の銘、鳥居両わ
きの燈籠一封には「享和三癸亥八月廿日、本邨氏子中」の銘がある。拝殿前に陶製狛犬
(備前焼)一対がある。拝殿内には「明治六龍次癸酉十月吉良辰旦 萬春亭社中」奉納の
算額一枚が掲げられてゐる、
(加原耕作)