安仁神社 「式内社調査報告」より ③

式内社調査報告 第22巻(皇學館大學出版部)」より

①【社名】【所在地】,②【祭神】

③【由緒】

【祭】【境内地】【社殿及び末社】【寶物・遺物等】

【由緒】邑久郡誌には記載されていない、知らないことが多くあります。

『 大伯國造と吉備海部は密接な關係があつたと考へられる。』は、更に調査が

必要です!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【由緒】『安仁神就御傳記』には「當社創建之上古より神祝命の神裔(しんえい)を

以て齋主と定め給ひしより、世々仕奉り來りしを軽鳥豊明朝御世七世孫左紀足尼を

此れの大伯國造と定給ひて祭政を兼しめ給へり。(中略)國造土居の趾は本宮を距離こと

西北二十二町邑久郷の内字十納家といふ所にあり。また土居ともいへり。」とある。

國造本紀にみえる「大伯國造」が存在したとすれば、あるいは邑久郡に鎭座した名神

大社安仁神社は彼等の齋き祭つてゐた神かもしれない。平安遺文10所牧『備前國司解

案』には「邑久郡少領外從五位上海宿禰共忠」の名がみえる。この海氏は日本書紀

古事記に登場する「吉備海部」の系譜を引くものであらう。大伯國造の實態(じった

い)は明らかでないが、この史料から推察すれば、大伯國造と吉備海部は密接な關係が

あつたと考へられる。

 いづれにせよ、当社は承和八年(841)二月八日に「備前邑久郡安仁神預二名神

一焉」(続日本後紀)とみえるのが初見であり、六國史では唯一の記録である。当社は

早くから「備前二宮」と呼ばれ、弘法寺又書の『邑久郷安仁社免田坪付寫』によると、

貞治六年頃の社領は一一町三反三0代であつた。安仁神社所藏の『僧隆祐田地沽券』

(正甲二年)、『豊原庄邑久郷蓮華寺紛失状寫』(貞和三年)などには「安仁社大般若免」

「安仁社経免」が豊原圧や東隣の鹿忍庄に存在したことがみえてゐる。

 また、弘法寺文書『弘法寺寄進田名々注文案』(応安六年)に「二反 内一反 安仁社

経免」、『弘法寺寺領高注文案』(文禄三年)に「廿三石 武斗一升四合 安仁社分」、

「卅弐(さんじゅうに)石八斗四升 安仁社分」ともあつて、中世の当社は弘法寺

密接な關係にあつたことが知られる。『吉備之國地理之聞書』によると「戦國の時は

千手山弘法寺の僧立入りしことありしと見えたり。(中略)武安霊神(池田輝政)の時僧を

停止せらる。」とみえてゐる。

 近世の當社は「中頃社領も凡千三百石計有し由、金吾中納言秀秋の時社領を没牧す。

其後輝政君の御時社領五石御寄附あり。」(元文四年『備陽國誌』)とも、「社領

弐千三百石餘付居申侯由(中略)金吾中納言殿御代迄弐百五拾石餘付居申由、中納言殿

御時被召上候。其後輝政様御代に高壹石壹斗御付被爲成、干今被爲下來候」(延寳三年

『御國中神社』、岡山大學所藏池田家文庫 ) ともいはれるが、いづれにせよ社領は激減

し、社運は衰退したやうである。

 『東備郡村志』には、また「祭田五十五石、安永九年山王を合祭せらる」ともある。

この山王は弘法寺鎭守山王權現が合祭されたものである。山王權現は元禄十一年

(一六九八)に岡山藩主池田綱政が社殿を復興、同じく弘法寺鎭守地權現と合せて社領

百石を寄進してゐた(弘法寺文書、元禄十一年『池田綱政山王社領寄進状』)が、安永

九年(一七八〇)安仁神社へ「合祭」されたもので、「祭田五十五石」はこの山王權現の

杜領五十石と安仁神社々領五石である。安仁神社々領は前記『備陽國誌』の「輝政君の

御時社領五石御寄附」ではなく、輝政の時に一石一斗、その後綱政の代に五石に増加し

たやうである。

 なほ、明治三年の安仁神社々領は二石七斗 一升五合一勺、相殿の日吉神肚(舊稱山王

權現、明治二年改稱)社領は一一石三斗四升一合となつてゐる(『神社明細帳』)。

安仁神社は池田光政以來「当藩(岡山藩)崇敬之社」として歴代藩主の信仰が厚く、

「毎年孟春廿五日、同姓の家臣を名代として代参」があり、社殿の造営等も藩費によつ

て行なはれてゐた。

 明治四年五月十四日、当肚は國幣中吐に列せられ、明治十八年の社殿改築には宮費が

支出されてゐる。

 明治三年の『神社明細帳』によると、当時の安仁神社神職は社務・太美大造、禰宜

横井磯治(先祖不詳、八代目)、神子・廣吉妻(先租不詳、七代目)、日吉神社神子・敷太母

(先祖不詳、八代目)の四人であつた。

 太美家は先租の藤井孫次郎惟景が鹿忍庄下司であつたと傳へ、その子の惟政が元享年

中に「当肚(安仁神社)社事相勤」めるやうになり、以來子孫相續、江戸初期の藤井大藏

が太美と改姓、その孫五郎左衛門が再び宮崎と改姓したと傳へる。寛文年中宮崎五郎

左衛門が社務職に任ぜられ、以來十二代にわたつて社務職を相續し、明治初年宮崎を

元の太美と改姓してゐる。

 大正四年の當社神職宮司禰宜、主典各一名で、宮司は太美大藏の孫定雄であつた

が、その没後申島東美(はるみ)氏を経て、現宮司は磯崎旭郎(としお)氏となつて

ゐる。