安仁神社 「式内社調査報告」より ①

式内社調査報告 第22巻(皇學館大學出版部)」をスキャナーし、OCR処理し文字に起こしました。安仁神社は、加原耕作 氏(岡山懸総合文化センター主任;岡山大学 法文学部 史学科,日本史専攻)が担当されています。

 参考文献・同氏の年齢の為か、旧仮名遣い・旧漢字が多く、修正も大変でした。

誤変換のままの所もあると思います。

【社名】【所在地】【祭神】【由緒】【祭】【境内地】

【社殿及び末社】【寶物・遺物等】からなりますが、文字数が多いので、分割して

掲載します。

「久方ノ宮」の出自が分かりましたが、怪しいです。

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【社名】吉田家本・武田家本に「アニノ」、九條家本に「アニ」と傍訓が付けられてゐ

る。『大日本史』も「安仁(アニノノ)神社」と訓んでゐる。

備前神名帳』総社本(綿抜本)には「安仁神社」、同一宮左樂頭本には「安仁ノ

大神」、同社上金剛寺本には「從一位安仁大明神」、同西大寺本・廣谷本・大瀧本及び

『國内神名位階記』山本本には「正二位安仁大明神」とあり、また弘法寺文書(邑久郡

牛窓町千手、弘法寺所藏)の『邑久郷安仁社免田坪付寫(写)』(貞治六年)、『弘法寺

寄進田名々注文案』(応安六年)及び安仁神社文書の『豊原庄邑久郷蓮華寺紛失状寫』

(貞和三年)等には「安仁社」とある。

 當肚はまた「久方宮(ひさかたのみや)」とも呼ばれてゐたといはれ、吉備津彦神者

文書『備前國中大小神祇』(康永元年)にみえる「久方ノ宮」は當社であるといふ。

 

【所在地】岡山市西大寺一宮八九五番地(元邑久郡藤井村字宮城山、赤穗線西大寺駅より

九キロメートル)に鎭座する。西大寺一宮と称するやうになつたのは最近のことであり、

岡山市へ合併するまでは西大寺藤井一宮と称してゐた。

 当社は古くから「備前二宮」と呼ばれてをり、一宮と称された記録はないが、

備前國唯一の名神大社であつたことから、神杜及び地元では一宮であると主張してを

り、近年大字名が一宮と改められたものである。なほ備前一宮は古くから吉備津彦神社

(岡山市、一宮鎭座)とされてゐる,

藤井(西大寺一宮)は古代の邑久郡邑久郷に属してをり、現在は内陸となつてゐるが、

古くは児島湾の入江の奥に位置してゐた。かつての入江を取りまく丘陵一帯には多数の

貝塚や古墳が分布してゐる。当社の東方一キロメートルの山上には備前四十八ヶ寺の

一つで、報恩大師建立とつたへられる千手山弘法寺(眞言宗)があり、その東方には古く

から良港として知られた牛窓がある。

 中世の藤井は邑久郡豊原庄の内に属してをり(『荘園志料』)、近世には藤井村と称し

村高四百五十一石三斗七升、田畑三町八反一畝九歩、家数六十六軒、男女四百十八人

(享保六年『備陽記』)であつた。藤井村は明治二十二年近隣四ヶ村と合併して大宮村、

昭和三十一年西大寺市へ編入、次いで昭和四十四年岡山市編入された。

安仁神社は往古宮城山(別名鶴山)の山頂に鎭座してゐたと伝へられてをり、その後山麓

の宇尾の上に遷されてゐた。現在の社地は宝永二年(1705)岡山藩主池田綱政が社殿改築

にあたつて造成したものである。安仁神社は明治初年まで「当藩(岡山藩)崇敬之社」

(明治三年『神社明細帳』)として、その造営は「公費」でもつて行なはれてをり、

氏子は存在しなかつた。明治以後も國幣中社として造営は「官費」があてられてをり、

大正十四年には「崇敬者百拾戸、講社員二千八百人」(大正十四年『安仁神社誌』)で

あつた。ただ、この崇敬者一一〇戸は「氏子同様ノ義務ヲ負擔(ふたん)スル崇敬者」

とされてゐた。昭和二十七年の氏子数は五〇〇人(神社明細書)、現在の氏子戸数は

岡山市西大寺一宮字北ノ路・横江・丸山の七〇戸及び同市朝日字古通古道里二〇戸である。