大神(オオガ)神社 式内社(上道郡)

上道郡の式内社は、『 大神神社 』4座です。何故、1社4座なのでしょうか?

近くには、『 備前車塚古墳 』・『 賞田廃寺跡 』・『 備前総社宮 』、等があります。

地名、『 国府 』・『 高島 』、他もあり、かっては備前国の中心だったのでは

ないでしょうか?

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岡山県神社庁

社格:郷社

鎮座地:〒703-8201 岡山市中区四御神381

御祭神:大物主神少毘古那神三穂津姫神,大穴牟遲神

由緒

本神社は延喜式神名帳備前国26座の内、上道郡大神神社4座と記載されている。創立年月は詳でないが、上古以来備前国の由緒ある神社である。

慶長年間(1596年~1615年)の社領は一町七反八畝九歩とある。現在では境内地を残すのみである。近年四御神付近の住宅地化・団地化とともに氏子の数も急速に増加している。

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式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』では、

【社名】吉田家本では「大神(オホムワノ)神社」と訓み、『大日本史』は

「大神(オオミワノ)神社」と訓んでゐる。現在は「大神(オホガ)神社」と称さ

れてゐる。

備前神名帳』総社本には「大神神社四座 柿本神社 梨子本神社」とあるが、

當社は古くから「土師宮」と呼ばれてゐたといひ、『備前神名帳』神上金剛寺本に

「土師宮大神大明神」、同西大寺本に「土師ノ宮 柿本ノ明神 梨子木ノ明社」、

『同國内神名位階記』に[土師宮柿本明神 梨子本明神」とある「土帥宮(土師ノ宮)」

は當社にあたるといふ。これについて『赤磐郡誌』(昭和十五年、赤磐郡教育会編)は

「此の祉は、今部落の中央、宇土師森に鎭座せらる。場所は土師森、旧村名は土師、

字名にヒシ(じ)ヤ(土師屋の意味か)。此の村に昔土師焼の大工場か在つた事を想像

する。」と社名の由来を示唆してゐる。

 

【由緒】創立年代を詳らかにすることはてきないが、『備前國式内書上考録』(明冶

初年)に「古へに土師宮と云ふは、卽(やが)て大神神社をいへる別称にて古地名なり。

四御神村(シノゴゼムラ)の地を古くは土師村とあり。今も本社より馬場道凡そ五町

ばかり隔たりて大鳥居あり。鳥居の前に道あり。道の南に土師屋といへる字あり。

古へは此處に八軒ばかり家屋ありて土器なと作れるよしにて、今も士師屋八軒といふ

なり。また、柿本神社・梨子本神社とあるは此大神(オホミワ)にある摂社にて古へは

いと盛りにありしにや。今も本社より南馬場道の左右に三・四町隔たりたる處の田地の

字に柿本・梨子本といへるところあり。今は本社の地に移し、いさゞかなる小祠にて

まつれり」と、また「本國の総社におきて、古への國司、祈年祭新嘗祭等の恒例の

神事は更にもいはず、或は祈雨、或は止雨などの奉幣もありし餘波を見習、聞習ひて、

國中の紳社、また寺院にても國家の祈禱事などすと云ふ。

大事件(コトダツ)とては、これの百二十八社を祈奉りて読上る。かの神名帳の中に

殊別て十師宮と称へたるは郡中一社の式内の社にて、ことに大社なる故なるべし。」と

記されてゐる。神社明細書(昭和二十七年)には「大和時代の創立と傳ふ」とし、「古老

ノ口碑ニ上古大和國城上郡三諸山ニ座ス大神々社・大物主神ノ六世ノ孫、大多田泥古ノ

末裔、大神朝臣ナル者、此地ニ転居シ本社ヲ崇祀スト傳フ。柿本神社・梨本神社トアル

ハ、當社ニ由緒アル末社

南方馬場道ノ左右三、四町隔リタル所ニ、字柿本・梨本トイヘル地アリ。古昔ハ此處ニ

鎭座アリシト傳フルモ當社境内ニ小社ニ祀レリ」とある。また、「岡山市史」(昭和四十

三年、岡山市役所刊)には「四御神村の村名はこの神社によったものである。上道郡式内

式外十四社中もっとも上位におかれた神社で、中世には神官不在の神社が多かったが、

大神神は、"右壱威在神祇官"と神名帳にしるしてある。旧四御神村一圓の氏神。同社は

もと四御神の背後にある惣堂山の上に祀っていたので、神社の書上に"上道郡四御神村

大神々社式内社ニ御座候而先年大和國三輪ノ御供ニ而四御神ノ山上ニ御鎭座申由ニ候。

今宮跡御座候。爾後神妙之儀御座候而今之處ニ御鎭座と曰傳最モ縁起神寶等申物焼失。

慶長元年中ノ書付御座候(以下略)"とあり、慶長年間の社領は一町七段八畝九歩、高三十

一石二斗四升七合と書付に残っている。」と記してゐる。現在地への遷宮年代について

は詳らかにする資料は見當らない。

明治六年郷社に列格。

【所在】現在の鎭座地は、岡山縣岡山市四御神(シノゴゼ)字土師之森三八一番地(旧

上道郡四御神村)である。國鐵、山陽本線東岡山駅北西約三キロメートル。四御神は

古代の上道郡上道郷に属し(享保六年『備陽記』)、南には條里の跡をとどめる平野が

廣がつてゐる。

 

【祭神】本社の祭神は、現在、主神に大物主神・少名毘古那神・三穗津姫紳・大穴牟

遅神の四座とされてゐる(神社明細書)が、大物主神と大穴牟遅の神は同神異称である。

『特選神名牒』に「今按本社祭神大物主神・大穴牟遅神を同殿に祭れる事疑はしきに

似たれど、大三輪神社鎭座次第に大三輪車の祭神を奥津磐座大物主命、中津磐座大己貴

命、邊津磐座少彦名命とみえたれば、此國にも三座の神を遷し奉り、嫡后三穗津姫神

合せ祭りて、卽大神神社と称へしなるべし」と推考されてゐる。

境内神社には若宮(祭神・太田多禰古命)・松尾御前神社(祭神、猿田彦命)、宗像神社

(祭神、多紀理毘賣命・市寸嶋比賣命・田岐都比賣命)、梨本神社(祭神、味須岐高毘古禰

神)、柿本神社(祭神、事代主命)、稻荷神耐(祭神、倉稲魂神)、八幡宮(祭神、應神天皇

神功皇后玉依姫命)、木野山神社(祭神、大山祇命・置玉彦命・大己貴命)がある。

【祭祀】例祭日は、十月二十二・二十三日である。それに春祭・五月十二日、その他

水無月祭を旧歴の六月三十日に、また甲子祭が六十一日目ごとにある。

現在、宮司は有森猛氏である。『神社明細帳』(明治三年)に「祠官有森健雄先祖有森神

三郎信政、天正年中神主相勤候以來當代迄十二代神職相続致シ居申候。居屋敷一畝廿二

歩、物成一斗一升三合四勺、年貢地」と、また「禰宜金光安雄先祖不詳、慶安三年 

禰宜谷三郎右衛門跡禰宜職申付候。一神子同郡段原村 八幡宮一代禰宜神子兼帶(帯)(以下略)」と記されてゐる。

氏子は二五八戸(『延喜式内神社國史見在之神社』…明治初年)であつたが、周邊がベッド

タウン化するに伴ひ急増し、現在では五〇〇戸となつてゐる。

【社殿・境内地】社殿は南面して建てられてゐる。本殿は流造、間口一間・奥行一間の

檜皮葺。幣殿は神明造で間口三間・奥行二聞の本瓦葺、釣殿も神明造で間口二間・奥行

三間本瓦葺。拝殿も神明造、間口四間・奥行三聞本瓦葺である。以上の四棟が南北に

ならび、權現造の荘重な社殿構成を見せてゐる。そのほか、三間一戸の随身門・鳥居

一基・石燈籠二基・狛犬二封がある。

境内地は一、〇五八坪あるが、開発の波に押され老木もだんだんと倒され、「土師の

森」と俗称された古昔の荘嚴さが矢はれてきてゐる。

(入見彰彦:岡山県総務部懸史編纂室主幹)