大祓詞 と 記紀

氏姓『藤原』は、中臣鎌足が死を迎え、天智天皇より賜ったものです。その後紆余曲折があり、「藤原不比等」が、頭角を現すと、藤原氏太政官を、元の姓に戻った中臣氏が神祇官を領掌する体制になりました。

藤原不比等=史人(?)は、「古事記」「日本書記」を編纂し、中臣氏は、神道を掌握して行きます。
従って、「記紀」と「祓詞」が表裏一体を示すのは当然です。

記紀の内容も、藤原氏にとって、都合の悪い記述は無いはずです。
むしろ、自らの正統性を内示しているはずです。

あくまで、『yamane』の仮説ですが、

記紀の内容は、物部氏を中心とする「前大和朝廷」を、
「神武東征」により天皇家が、禅譲される話を中心とします。

その真偽について色々と議論されていますが、渡来人である「中臣氏」が、
他の渡来人系勢力を排して、
大和朝廷の中枢に登り詰める話として読むと納得できると思います。


高天原・東征は、中臣氏の歩んだ道ではないでしょうか。

また、渡来人が国内を移動するには、当然九州の海部氏の協力が不可欠だったと思います。
日本各地に残る、九州海部氏の足跡は、渡来人との協業の他ならないと思います。

実はいわゆる、[邪馬台国]は、「やまたいこく」と読むかどうか定かではありません。
魏志倭人伝』の版本には、すべて「邪馬壹國」または「邪馬一國」と書かれています。
もし、「邪馬台国」→「ヤマト」への「移行」もしくは「東征」があったなら、
記紀にも取り上げられているはずです。