「吉備の国」
古代史を考えるとき、「物部氏とは何者か?」という問題に行き着きます。 『yamane』は、河内王権以前の「前ヤマト王権」だと理解しています。 河内王権以前の吉備と物部氏は決して共同体ではなかったと思います。 河内王権(応神・仁徳天皇)=「大和王権」…
5月一日メーデーです。暖かさに誘われて、赤磐市の「石上布都魂神社」に久しぶりに行きました。 赤磐市多賀の丁字路(岡山御津カントリークラブへの入り口ですが)から、 要所要所に、「石上布都魂神社はこちら」の目印が表示してあり始めての人でも分かり…
岡山市祇園にある、備前国総社宮ですが、写真のように見る影もありません。 ただ、『総社宮という名にふさわしい復興を願い、平安時代後期12世紀の社殿復元を核とする。』 計画があるようです。 http://www.geocities.jp/bizenksoja/# このホームページでは…
桃太郎のお供は、ご存知のように「犬猿雉」ですが、どうしてでしょうか? 一般的には、鬼門である丑寅の方位に対応するため 南西の方向の干支である、「猿」を、そして風水で金運である西の方角の干支「雉」達を連れてきたというものでしょう。 でも、方位で…
有名な「吉備津神社縁起」ですが、この話は、次の様に解釈できると思います。 ①温羅を倒して、初めて「吉備津彦命」を名乗った = 吉備を統一した。 ②ただし、反抗は其の後も13年間続いた。 ③反抗勢力との融和手段として婚姻関係を結んだ。 ④御旗であった…
吉備の国といえば「桃太郎」ですが、いったいどのような背景があるのでしょうか? 一説に、「上道氏の吉備西部方面への侵攻」があります。 『桃太郎と邪馬台国』(前田晴人 講談社現代新書) http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books251.htm 5世紀ごろ吉…
氏姓『藤原』は、中臣鎌足が死を迎え、天智天皇より賜ったものです。その後紆余曲折があり、「藤原不比等」が、頭角を現すと、藤原氏が太政官を、元の姓に戻った中臣氏が神祇官を領掌する体制になりました。 藤原不比等=史人(?)は、「古事記」「日本書記…
黒住教は神道ですから、「大祓詞」です。 大祓は、中臣神道ですから、歴史と切り離すことは出来ないと思います。 「大祓詞」は「古事記の神武の東征」と連動していますね。 中臣=藤原 → 古事記 の系図ですから。 九州から近畿への、移動については色々な考…
Wikipedia では、 吉備津彦命(きびつひこのみこと)は日本神道の神。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。 孝霊天皇の皇子で山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。 別名(本来の名)を五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、吉備国を平定した事によって吉備津彦…
今日の山陽新聞「おかやま@ぐるぐる」に、石上布都魂神社が紹介されています。 今もう、師走。もうすぐ、新年「初もうで」ですね。 しばらく、藤井村の「安仁神社」にもお参りしてないですね。 もう少しねたを仕込んで、歴史ネタも再開したいと思います。 …
岡山市の政令都市移行に伴う、区割りがもめているようですが、どうなるのでしょうか? 藤井村は岡山市の東端で、どんな区割りになっても日のあたる場所ではありません。 周辺辺境過疎地(東部と北部だけだと思いますが・・・)はどうなるのでしょうか? とは…
吉備は、「備前・備中・美作・備後」の4国です。 旧国の郡(1878年 「郡区町村編制」)は下記の通りですが、もはや地図上に無いところが多くなりました。 邑久郡もそうですが・・・・・ 「備後国」は広島県なので、なじみがないし、わかりませんね! 備…
今日の山陽新聞の社会欄に、『備前焼狛犬盗難5件』という記事があります。 「北居都神社」がある、「岡山市東平島」は住宅地の一角です。そこから盗難が起こるとは! 他の多くの神社はもっと閑静な場所にありますから、神社の「狛犬」(「掛け額」「神像」…
祇園の総社宮には、備前の128社が合祀されていますが、 その中で特に格式が高い神社が、『首座 特別九社』です。 ・小島神社、八幡雄島神社:上道郡宇野村大字原尾島 ( 岡山市 原尾島 ) ・吉備津彦神社:御津郡一宮村 ( 岡山市一宮 ) ・安仁神社:邑久郡…
明治政府による、親政の性急な改革の必要性の元、結果的に多くのものを壊し、そして再生して行きました。 宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、1867年(慶応3年)には神仏分離令が布かれました。神仏分離令は、本来江戸時代までの神仏習合に…
国内の神社のご祭神を一ケ所に集めたお宮を総社といいます。平安時代初期は国司は国内の神社を巡拝しなければなりませんが、広範囲の地域に点在する神杜を全部巡拝するとなると、大変です。 そこで、考えついたのが国内の神社のご祭神を一ケ所に集めてお祭り…
備前国の総社宮は、「祇園」にあります。 「祇園」?旭川荘の南といった方が分かりやすいでしょうか。 どうしてこんな所にあるのでしょうか? 答えは簡単です。国府の近くにあるのです。 備中の総社は、総社市にあります。分かりやすいですね! でも、「備前…
池田光政候の神社の整理は、寛文6(1666)年に藩内の11,130社(やしろ)の由緒を調べて、氏神と産土神の601社を除いては淫祠邪神として廃祀にし、それらの祭神を代官所ごとに建立した71社の寄宮(よせみや)に、それぞれ合祀した施策です。 光政の次代の…
岡山藩主「池田 光政」。言わずと知れた名君です。 後楽園は、三大名園ですが、 「光政」は、「水戸藩主・徳川光圀」、「会津藩主・保科正之」と並び江戸時代初期の三名君として称されているそうです。 まじめもすぎれば問題で、岡山名物の料理「祭り寿司」…
備中に比べて、備前には「吉備津彦命」を祭神とする神社が少ない。 これには、備前国内での何らかの事情があったに違いありません。 調べてみると確かに、幾つかの弾圧があったようです。 まず、式内社「美和神社(瀬戸内市長船町東須恵)」 の歴史を調べると…
『吉備津彦神社』は、岡山市一宮(旧備前国津高郡)にある、備前一ノ宮です。 でも調べて行くと色々不可解なところが出てきます。 ①延喜式(905~967年編纂)、吉備国の名神大社 「備前国 安仁神社」 「備中国 吉備津彦神社」 「備後国 該当なし」 「…
大伯国造(おおくのくにのみやつこ)は、 「軽嶋豊明朝の御世に、神祝命(かむほうりのみこと)の七世孫の佐紀足尼((さきのすくね)」です。 神祝命系の国造は、「大伯国造:備前国邑久」「吉備中縣国造:備中国後月」 「阿武国造:長門国阿武」「久味国造: 伊予…
「星川皇子事件(479年)」の時、吉備稚媛の父『吉備上道臣』らは、星川皇子救援のため軍船を送るが間に合わずして帰る。 その結果上道臣は、山部を奪われることになります。 更に、備前東部(大伯)に非吉備系国造 がおかれることになります。 大伯は、吉備…
大伯国造は、どこに住んでいたのでしょうか?以前に触れたようにかっての「邑久郡」は、「吉井川以東~赤穂市」までの備前海岸部のほとんどの地域をしめていました。でも、上道氏(山陽町?)との関係を考えれば、吉井川河口周辺に拠点を置いていたはずです…
瀬戸内市のHPでは、旧邑久町の名前の由来として、次のように記載されています。 http://www.city.setouchi.lg.jp/history/index2.html 「邑久郡」は古くは『大伯(おほく)』と呼ばれ、『国造本紀』には「大伯国造」と記され、藤原宮跡出土の木簡には「大…
応神天皇は、吉備兄媛を追って、吉備に幸し、葦守宮で供応を受け、御友別らに吉備5県を分封。(紀) 仁徳天皇、吉備海部女、黒日売を追って吉備に幸す。 この同じような出来事が、仁徳・応神天皇同一人物説の有力な根拠となっています。 この時代の吉備国は…
神話世界の、『神武天皇』ははたして、誰の投影なのでしょうか? ①崇神天皇を以って初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説があるが、神武天皇と崇神天皇の経歴には、あまりにも違いが多すぎることから、同一人物説には無理があるのではと…
「吉備海部」氏、が多数見られるのは、大和の王権が彼らの航海の技術を重用したことを示している。 彼らは瀬戸内の海を自由に往き来して、紀伊国の紀一族の海人たちと深い連携を持っていたようにも見える。 羽嶋が紀伊の押勝と共同して行動していること、采…
前回、コメントした「平賀元義」は、『布勢神社』ゆかりの歌人です。布勢神社は、赤穂線大多羅駅東の坂を登ったところにあります。氏子地域は、<大多羅町、目黒町、長利、中川町、益野町、松新町、富士見、可知、西大寺松崎>です。 さてここから、少々強引…
邑久郡の人なら『平賀元義』知っていますよね? ほら、赤穂線大多羅駅にある、「平賀元義翁墓所」の石碑は見たことがあるでしょう! 「おかやま人物往来」によると・・・・ http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/hiragamotoyoshi/motoyosi_s…