神武天皇は?? 崇神天皇? いや、応神天皇=仁徳天皇 でしょう!!

神話世界の、『神武天皇』ははたして、誰の投影なのでしょうか?

崇神天皇を以って初代天皇とする説や崇神天皇神武天皇を同一人物と見る説があるが、神武天皇崇神天皇の経歴には、あまりにも違いが多すぎることから、同一人物説には無理があるのではと思われる。
欠史八代を史実の反映と見る立場からは、日本書紀の記述によると、神武天皇畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこなく、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくることから、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。
また、欠史八代葛城王朝(物部朝)から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交代説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

応神天皇仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日) - 応神天皇41年2月15日(310年3月31日))は、第15代の天皇(在位:応神天皇元年(270年)1月1日 - 同41年(310年)2月15日)。誉田天皇誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
実在性が濃厚な最古の大王(天皇、とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説、などが出されている。
その年代は、古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。記紀に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者(女性を含む)を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。
この実在の不確かさもあり、大王の実像をめぐっては諸説が出されてきた。
三王朝交代説における征服王朝創始者とする説、
邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説
河内王朝の始祖と見なす説などである。
また、海外史料との相対比較から、『宋書』に見える倭の五王の讃に比定する説、「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。

どちらをもってしても、吉備の海部氏の協力が不可欠でしょうが、吉備海部氏が5世紀初め頃になって始めて現れてくると云うことは、彼らは4世紀末に応神王朝の成立に関わり、それ以来、関係を持ったものと見ることができるでしょう。
崇神天皇では、無理があります。この時代は、近畿地方は、古代葛城王朝『物部王朝』、のはずです。