吉備兄媛、黒比売、そして、稚媛

応神天皇は、吉備兄媛を追って、吉備に幸し、葦守宮で供応を受け、御友別らに吉備5県を分封。(紀)
仁徳天皇、吉備海部女、黒日売を追って吉備に幸す。
この同じような出来事が、仁徳・応神天皇同一人物説の有力な根拠となっています。
この時代の吉備国は独立した、大和朝廷の連合国の一つとして良い関係にあったものと思われます。

ところが、雄略天皇(457-479)に成って、この関係は崩れて行きます。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
平群真鳥を大臣に、大伴室屋物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋。(きびのしもつみちのおみさきつや ・463年)や吉備上道臣田狭。(きびのかみつみちのおみたさ ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にした。(Wikipedia より)

問題は、これらの事件に、吉備の海部氏がどのように関与し、その後どのように処遇されたかです。