吉備の『海部』のその後。大伯郡は!

星川皇子事件(479年)」の時、吉備稚媛の父『吉備上道臣』らは、星川皇子救援のため軍船を送るが間に合わずして帰る。 その結果上道臣は、山部を奪われることになります。
更に、備前東部(大伯)に非吉備系国造 がおかれることになります。
大伯は、吉備海部の拠点です。 これで、吉備海部は、大和朝廷のものになりました。

大伯国造は、『軽嶋豊明朝の御世に、神祝命の七世孫の佐紀足尼を国造に定められました。』とあります。その時代の検証はともかく、「神祝命」系ですから、確かに「非吉備系」でしょう。
『佐紀足尼』は、何者でしょう?もう少し検証したいと思います。

その後、「吉備海部直」氏としては、次のような氏がおります。
吉備海部を統率してはいるのでしょうが、完全に大和王権側です。

・吉備海部直羽嶋:続日本紀敏達天皇(572-585)の十二年の条には、百済にいる達率日羅を召還するために百済に赴くことを、紀国造押勝と吉備海部直羽嶋が命じられる。この時は、両人は共同で行動するのでなく、まず押勝が交渉に行くが成功せず、再び羽嶋が交渉に赴いて、ようやく目的を達することを得る。

・吉備海部直難波:敏達紀2年5月条は越国の海岸に停泊した高麗の使者を吉備海部直難波に送還を命じたとし、同年7月条は送使難波の船に高麗の使者を乗せ、高麗の船に大嶋首磐日・狭丘首間狭を乗せて出航したところが、難波は途中で波浪を恐れて使者を海中に投げ込み、8月に帰って虚偽の報告をし、翌年7月高麗の使者が大嶋首磐日、狭丘首間狭とともに再び入京して難波の悪事が露見したとします。