邑久郡=大伯(おほく) 名前の由来

瀬戸内市のHPでは、旧邑久町の名前の由来として、次のように記載されています。
http://www.city.setouchi.lg.jp/history/index2.html
邑久郡」は古くは『大伯(おほく)』と呼ばれ、『国造本紀』には「大伯国造」と記され、藤原宮跡出土の木簡には「大伯評」「大伯郡」と表記されています。
「大伯」から「邑久」に変わったのは『続日本紀』によると、和銅6(713)年に国郡郷名を「好字」で表記されるようになったことによります。

ここで、『国造本紀』では、吉備の国に関しては、次のようにあります。
美作国造:諾羅朝の御世の和銅六年に、備前国を割いて美作国を設置しました。
大伯国造:軽嶋豊明朝の御世に、神祝命の七世孫の佐紀足尼を国造に定められました。
上道国造:軽嶋豊明朝の御世に、元からの領主・中彦命の子の多佐臣を、はじめて国造に定められました。
野国造:軽嶋豊明朝の御世に、元からの領主・弟彦命を、次いで国造に定められました。
下道国造:軽嶋豊明朝の御世に、元からの領主・兄彦命またの名を稲速別を国造に定められました。
加夜国造:軽嶋豊明朝の御世に、上道国造と同祖で元からの領主の中彦命を、あらためて国造に定められました。
笠臣国造:軽嶋豊明朝の御世に、元からの領主・鴨別命の八世孫の笠三枚臣を国造に定められました。
吉備中県国造:瑞籬朝の御世に、神祝命の十世孫の明石彦を国造に定められました。
吉備穴国造:纏向日代朝(まきむくのひしろのみかど)の御世に、和邇臣と同祖・彦訓服命の孫の八千足尼を国造に定められました。
吉備風治国造:志賀高穴穂朝の御世に、多遅麻君と同祖・若角城命の三世孫の大船足尼を国造に定められました。

国造(くに の みやつこ・こくそう)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つです。
吉備の国の多くの「国造」は、軽嶋豊明朝の御世に定められたとまりますが、これは『応神天皇朝のはずです。このとき本当に、吉備に「国造」は存在したでしょうか。もっと独立した存在のはずです。

また、『大伯国造』は、6世紀になって(星川皇子の乱の後始末として)非吉備系国造をおいたとの説もあります。
ここは、安仁神社の存在を考えるとき重要です。