「吉備海部」氏、が多数見られるのは、大和の王権が彼らの航海の技術を重用したことを示している。
彼らは瀬戸内の海を自由に往き来して、紀伊国の紀一族の海人たちと深い連携を持っていたようにも見える。
羽嶋が紀伊の押勝と共同して行動していること、采女大海が紀小弓の妻になっていること、また、紀伊国に吉備郷が存在することなどが、そのことを示している。
彼らは何故、大和の王権に仕えるようになったのか。上述のように深い関係にあった紀伊国の紀一族が、大和の王権の一翼であったためとも考えられる。
もう一つ別の考え方もできる。この分類に入る人物が、5世紀初め頃になって始めて現れてくると云うことは、彼らは4世紀末に応神王朝の成立に関わり、それ以来、関係を持ったものと見ることができる。
すなわち、
応神の投影である神武が、瀬戸内を東へ進み大和へ向かう途次、
吉備の児島に3年(あるいは8年)留まって兵船を整えたとするのは、
ここで、「吉備海部たちの協力を確保した」
と見ることができ、この時以来、吉備海部たちは大和の王権に仕えるようになったと考えられるのである。
「古代吉備王国の栄光と衰亡」より
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/okym-top.htm
「吉備海部直」氏で有名なのは下記がありますが、色々事情は異なります。
吉備海部直赤尾 → 雄略天皇朝(457-479)
吉備海部直羽嶋・吉備海部直難波 → 敏達天皇朝(572-585)
吉備と大和朝廷との関係は、5世紀後半 大きく変わってきます。