「平賀元義」から『藤井村』へ

前回、コメントした「平賀元義」は、『布勢神社』ゆかりの歌人です。布勢神社は、赤穂線大多羅駅東の坂を登ったところにあります。氏子地域は、<大多羅町、目黒町、長利、中川町、益野町、松新町、富士見、可知、西大寺松崎>です。

さてここから、少々強引に『藤井村』ネタに持って行きたいと思います。

備前國南部の多くは、かっては海でした。吉井川・旭川沖積平野が徐々に広がり、江戸時代以降の干拓事業により、海岸線は大きく変わりました。
「藤井村」もかっては、吉備の穴海の最東端にある峡湾でした。
ところが、幸島新田開発により今では、「谷間の村」になってしまいました。

吉井川西側もそうです。「松崎新田」「沖田新田」等です。
さて、新田が開発されたときには当然、住民はおりません。どこからか、移住してきたはずです。
実は、『藤井村』から移住していった一族がおりました。
それは現在の住民の姓名からから分かります。
ということは、江戸時代には、既に「姓名」を持っていた人たちです。

「平賀元義」の歌碑です。
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大多羅には、寄宮もあります。これについても、そのうちコメントしたいです。
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