備前の神社災難「金川城主 松田氏」

備中に比べて、備前には「吉備津彦命」を祭神とする神社が少ない。
これには、備前国内での何らかの事情があったに違いありません。
調べてみると確かに、幾つかの弾圧があったようです。

まず、式内社「美和神社(瀬戸内市長船町東須恵)」
の歴史を調べると、
『当社は永禄年中(1558~1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。』

備前法華と安芸門徒という言葉が江戸時代以来あったようです。
真宗門徒といえば安芸(広島県)を、法華信者といえば備前を想起するという意味です。

 法華宗に帰依した、富山城主松田元喬の子、元成は居城を金川に移して武力、政治力を背景として、領内の他宗寺院を次々に改宗させたようです。
 後世の史料ですが、土肥経平の『備前軍記』巻三に「松田近年日蓮宗を甚以て信仰して、吾領内の寺々を其宗に改めさせ、したがはざる寺を焼はらひける金山観音寺吉備津宮など放火せし此時なり金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し」と伝えています。

 備前でも宗教戦争があったようです。