備前の神社災難「明治新政府」

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明治政府による、親政の性急な改革の必要性の元、結果的に多くのものを壊し、そして再生して行きました。
宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、1867年(慶応3年)には神仏分離令が布かれました。神仏分離令は、本来江戸時代までの神仏習合による仏教と神道の混交から両者を分離することでしたが、改革の流れに翻弄され、当時の復古的機運は仏教でさえも外来の宗教という点で廃仏毀釈として弾圧される事になりました。この為、多くの伝統が失われてしましまた。

またかって、旧藩の庇護の元実施されていた宗教行事が、廃止されてしまします。
大多羅寄宮」が、「寄宮跡」になったのもこのためです。

 安仁神社の祭神が、皇室史観のもと「五瀬命主祭神とし、稲氷命・御毛沼命を配祀する」事になってしまったのもこのような時代背景だったのでしょうか?