安仁神社の歴史的存在感 ②

安仁神社に関する、ネット上の記事の2回目です。
前回と同じく、
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-16
からです。


 どうやら私が走り回った平地は、2000年前は、海であったようです。海抜4mの地域です。このことが判りますと、No364に書きました神社に伝わる伝説である「神武東遷の舟のともつなを掛けたといわれる綱掛石神社などがある」は本当である可能性が出てきます。

 神武天皇は、奈良を攻める前に、九州の吉野ヶ里を攻め、安芸を攻め、吉備を攻めることになりました。吉備では高島宮で八年居られたことが古事記に記されています。No345~348に於いて、高島はどこか探りましたが、三ヶ所のうち、笠岡市の高島が、ユダヤ人の支援があるので、ここ(笠岡市)ではないかと書きましたが、安仁神社にも船を留めたとしますと、高島は三箇所とも利用した可能性があります。敵の中に切り込んだ形ですから、やはり安全でないと船を留めることは出来ません。

 安仁神社から銅鐸が出土しています。詳細がわかりません。又かと思われるかも知れませんが、銅鐸を持っていた人は、イザナギの一族の人ではないかと推察しています。イザナギの一族が、ここに居たとしますと、ここは邪馬台国への入り口です。紀元後234年頃までは、重要な港であったことが納得できます。

 大伯海(おおくのうみ)が和名抄にあります。備前国邑久郡(おくぐん)の前にひろがる海であったようです。安仁神社のあった所は、大伯国(おおくのくに)と呼ばれたこともあり、吉備海部(きびあまべ)と云われた人たちの住む所でした。
吉備海部はどのような人たちか調べていません。