「邑久郡」とは、実はもっと広大な地域だった?!

イメージ 1

さて、まず「邑久郡」について考えてみたいと思います。
邑久郡」というと、現在の瀬戸内市=旧長船町邑久町牛窓町 と考える人がほとんどだと思います。でも、本当の「邑久郡」はもっと広い範囲だったのです。

①まず Wikipedia で、調べてみますと、下記のような記載があります。
 明治22年6月1日 町村制施行(20村)
 牛窓村・鹿忍村・長浜村 (牛窓町 → 瀬戸内市
 邑久村・福田村・今城村・本庄村・笠加村・玉津村・裳掛村 (邑久町 → 瀬戸内市
 豊原村 (瀬 戸内市及び岡山市
 美和村・国府村・行幸村 (長船町 → 瀬戸内市
 幸島村・太伯村・豊村・朝日村・大宮村 (西大寺市 → 岡山市
 鶴山村 (備前市
明治の段階では、「邑久郡」は、現備前市以南の吉井川東岸地区であったことがわかります。
②更に、岡山県立 記念資料館(http://archives.pref.okayama.jp/history1.html)では岡山県の年表として、
・721養老54備前国邑久郡・赤坂郡から藤原郡を分離する」
・769神護景雲36 備前国藤野郡を和気郡に改称する。
とあります。
 また、「白猪部某が貢進者として登場する荷札『備前国邑久郡片上郷寒川里』」(「古代を考える 吉備」吉川弘文館西大寺図書館所蔵)も見られます。

詳細は調べていませんが、たぶん 旧邑久郡=吉井川東岸部分+備前市(旧吉永町を含まず)の備前国南東部の広大な部分です。
歴史を考えるときには、この事実を考慮する事が大切です。
また、岡山県南部の地形は、人工的な干拓とともに、吉井川・旭川高梁川による沖積平野の拡大を考慮しないと見誤ることになります。