藤井村の偉い人『太美直徳』

「改訂邑久郡誌 下巻」によると、『太美(たみ)直徳』は、

藤井の人、初めは宮崎大江、後に太美直徳と称し、鶴山樵夫と號丁、贄を大阪後藤松陰に執る。
一、明治元年十一月二十二日安仁神社々務職相続
一、同二年七月二日第六大隊教授申付候事、六大隊監事兼三番小隊長申付、岩代國若松表戊兵出張中参謀
一、同四年八月二十日任安仁神社称宜
一、同十一年、二月六日任安仁神社主典
神社に奉仕する傍ら家塾を開きて後進の啓発に当りしが、大正三年十二月二十四日逝く、享年八十一。文稿に『塵勝間』あり。

明治初期に、安仁神社に活躍した人のようですが、色々な意味で良くわからない人です。
現在は、藤井村には『太美家』は途絶えております。
村でも、その出は「藤井氏」とも「宮崎氏」とも言われ、良くわかっていないようです。

 また、安仁神社は、現在は、五瀬命主祭神とし、稲氷命・御毛沼命を配祀するとしていますが、これは、古くは「兄神社」と称していたと伝えられることから、初代天皇神武天皇の「兄」に当たる五瀬命ほか二神を祭神としたもので、明治時代に定められたものである。
様は、主祭神五瀬命」は、明治時代に初めて唱えられた創作です!
 たぶん、『太美直徳』はこれに関わっているのだと思います。
他にも、いろいろありますが、それは次回に!