中山神社 名神大社 (美作国) ①

津山の「高野神社(美作二宮)」「作楽神社(院庄館跡)」は、国道に近いので、

お参りしたことがありますが、「 中山神社(美作一宮) 」 には、まだお参りした事が

無いです。作州街道沿いで、古くから栄えた所でしょう。今は、広域農道になっている

ようですから、時代は変わったものです。

同社も、詳しく知りませんでしたが、由緒正しく高貴ですね。

吉備国名神大社の中で、備前安仁神社」は、「吉備津神社」「中山神社」には

見劣りする感があります。

やはり、海部系神社である「安仁神社」は、中世以降その立場が変わったように思いま

す。戦国時代以降の時の支配者の影響も大きいように思いますが。

 

中山神社 」 は、吉備津神社と同様、『『左經記』によると後一條天皇の寛仁元年

(1017)十月の一代一度の大奉幣には五畿七道の四十八社中の一にはいつてゐる。古代

中世の本社については詳しくは知りやうがないが、平將門・藤原純友の誅伏祈願

源義親誅伏祈願、元寇降伏祈願等のことが社傳に見え、軍神として崇敬されてゐた

ことが知られる。』であり、社格が高いことが分かります。

安仁神社が、本当に「藤原純友」味方したのであれば、「 時の権力におもねっていな

い。」とも言えますが。

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中山神社ナカヤマジンジャ

岡山県神社庁』では、結構詳しく「由緒」が記載されています。

社格    国幣中社

鎮座地    津山市一宮695

御祭神    鏡作神

由緒 当社は文武天皇慶雲4年(707)此の地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと

伝えられている。貞観年間官社に列せられ、延喜式に於ては美作国唯一の名神大社

あると共に此の国の一宮でもある。

 「今昔物語」に猿神の説話があり、後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」には関西

に於ける大社として、安芸の厳島社備中の吉備津宮などと肩を並べている。

 鎌倉時代に元冦など国家非常の時に際し、勅命により特に全国7ケ国の一宮に国家

安穏を祈願せしめられているが、当社も其の中に選ばれて祈願を厳修したことが伝えら

れている。

 弘安8年に一遍上人回国の途当社に参詣し念仏踊を行ったが「一遍聖絵」(国宝第八

巻)に作州一宮図があって、其の節参詣の図が描かれている。建武中興破れて天正

至る約4百年間は,美作国中戦乱の巷と化し、その為に社寺の祭祀も殆んど絶えようと

する有様であったが、当社は永正8年(1511)と天文2年(1533)の両度に祝融の厄に

遭い、本殿以下山上山下の摂末社120社と共に宝物・什器・旧記・古文書等悉く炎上

焼失した。

 永禄2年(1559)に至り、出雲城主尼子晴久戦捷報賽の為め社殿を復興した。世に

中山造と称せられる入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪

約41.5坪の宏壮雄大な御本殿であって、大正3年国宝建造物の指定を受け、現在は

国指定重要文化財の指定を受けている。

 慶長8年森忠政美作全州を領して入封するに至り、国内漸く平定し歴代の藩主の崇敬

も厚く社領の寄進や修築の資の奉献など絶えることなく、又「一宮さま」と親しまれ、

朝野の信仰を集め、中世より近世にかけては門前市も大いに繁昌した。

 明治4年国幣中社に列格。御祭神金山彦命と定められた。これにより明治年間再度に

亘り御祭神名を「鏡作神」に改められる様願出でたるも聴許せられず終戦を迎え、

昭和21年宗教法人中山神社設立届出に当り御祭神名を主神鏡作神、相殿に天糠戸神、

石凝姥神配祀と総て明治以前の社家伝承や旧記類に明記せられている御神名に旧した。

 宗教法人中山神社となった後も、御本殿以下諸建造物等境内の森に至るまで昔のまま

の姿にて防災施設も完備し、美作国の一宮と広く尊信されて現在に至っている。

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『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』(熊谷保孝:滝川高等学校教諭)

では、

 

【杜名】延喜式吉田家本に「中山(チウザン)神社」とあり、今昔物語には「中参」と

あり、梁塵秘抄には「ちうさん」とあつて、古くは「チウサン」と音讀するのが普通で

あつた。漢字をあてる場合、「中山」が一般的であるが、三代實(実)録に所見する

五例のうち二例は「仲山」の字をあててゐる。中山の名称については、本社が吉備の

中山(備前と備中の境界にある吉備津神社の裏山)、すなはち、吉備津神社を勧請したか

らであらう。では、なぜ「ナカヤマ」と訓讃するか、あるいは同じく吉備津神社を勧講

した備前・備後両國の一宮のやうに「吉備津」の名称構を付けなかつたのであらうか。

これについては産鐵の國としての美作の特殊性によらう。すなはち、本社は産鐵・製鐵

の神としての信仰を得てゐたが、『山海經』といふシナの古典のなかに、鐵の世界を

描いた『中山經』といふ書があり、この影響によつて「ナカヤマ」ではなく

「チウサン」と音讀されたのであらう。『仲山神社旧記抜書』によると、南北朝時代

北朝の正慶二(南朝の元弘三年、1333)年に北朝より勅使の御参向があり、そのときの

祝詞に「中山太神宮」とあり、永緑二年(1559)に尼子晴久が社殿を造営したときの

棟札にも「中山太神宮」とあつて、南北朝時代の頃から「太神宮」と尊称され、また

『類聚旣驗抄』や『作陽誌』などには「中山大明神」ともあり、近世ではこの名称が

よく使用せられたやうである。今日、地元では一般に「ナカヤマ」と訓讀してゐる。

また一宮とも南宮とも称せられてゐる。

 

【所在】中國山脈から津山盆地に半島のやうにつぎ出した神樂尾山系の中ほど長良峯の

東麓に鎭座する。神社のすぐ東を鵜の羽川が流れてをり、ここで横野川と合流して宮川

となり、津山盆地中央の吉井川に流れ込む。神社の西は長良峯で、北は黒澤山方面に

かけて、わづかの谷間があるが、東には神宣山があり、開けてゐるのは南から南東方面

にかけてである。神社の南方一、ニキロメートルの上河原地區(区)には條里制の遺構

も存するので、この附近はかなり古くから拓けてゐたのかも知れない。砂鐵を産する

美作國において、山と川と耕地に圍まれたこの地は、製鐵をするにも、農耕をするに

も、重要な地であつたのであらう。國鐵姫新線津山駅より北方六キロメートルのところ

である。

 

【由緒】『中山神社縁由』等によると、本社の現社地での創祀は慶雲四年(707)四月三日

であるといふ。四月三日は「シガサン」と称され、今口も重要な祭日であるので、

この日を創祀日と考へるのは正しいと思はれるが、慶雲四年は疑問である。續日本紀

和銅六年(713)四月三日に美作國が備前國より分立したことを記してをり、ここに本社

の創祀と美作國分立の月日が一致する。推測するに、本社は美作國分立と共に創祀せら

れたのではなからうか。

 では、なぜ美作國分立と共に本社が創祀せられたかといふと、旧吉備國から分立した

備前國も備中國も備後國もすべてが吉備國の守護神たる備中國の吉備津神社を奉齋して

ゐる。從つて、美作國も旧吉備國の版圖に入るのであるから、分立と共に古備津神社を

勧請してもしかるべきだと考へられるのである。『中山神社緣由』などに、中山大神が

現社地に鎭座されるまでに、有木や東内といふ者の前に化現されるが、備中國の吉備津

神社の神職の頭梁に有木なる者がをり、また「備後國一宮社記』によると、備後國に

吉備津神社を遷したのもこの一族であるといふから、あるいは美作國の有木もこの一族

で吉備津神社を美作國に勸請したのかも知れない。本社の御祭神に關する説のなかに、

吉備津神社と同體説が存するのも、このやうな事實の反映ではなからうか。

 中山神が最初に正史に所見するのは三代實錄貞観二年正月二十七日條で、下五位下か

ら從四位上に神位を昇叙された記事である。前年十一月に清和天皇大嘗祭に際し美作

國が主基國として奉仕してゐるので、美作國を代表する神としてこの昇叙のことがなさ

れたのであらう。美作國の神社でこれまでに正史に所見した例はない。しかし、中山神

はこのときすでに正五位下を冠してをられるので、これ以前から中央政府に注目されて

ゐたやうである。

 この後、中山神は清和天皇朝において急激に臺頭する。貞観六年八月十四日には官社

に列せられる。すなはち、式内社となられたのである。おそらく、美作國では最初で

あらう。翌貞觀七年七月二十六日には從三位に昇叙され、清和朝の末期、貞觀十七年

四月五日には正三位に昇叙される。この頃においては三位以上を奉叙された神社は限ら

れてをり、異常といへるほどの急昇ぶりである。そしてこのあとは正史に所見すること

はない。清和朝においては、中山神ほどではないが、他の美作國の諸神も正史に集中的

に所見し、しかもこの時期のみに限られてゐる。このことは中山神社を中心とする美作

國と清和天皇あるいはその下で政治の實權(実権)を掌握してゐた藤原良房との特別な

閾係が存したからではないかと思はれる。律令時代の美作國の國守に補任される者は

武官あるいは兵部卿を兼任する者が多いが、このことは該國が軍事的に重視されてゐた

からであり、藤原良房もその政権の基礎となる軍事力を充實させるため産鐵の國である

美作國に注目したのではなからうか。本社が製鐵・鑛山神として崇敬されると共に、

軍神としても尊敬されたのは、このやうなところに由來するのであらう。

 この後、延喜式制では名神大社に列せられ、また神階は諸神同時昇叙等において、

平安末期までに正一位の極位を奉叙された。美作國一宮、美作國総鎭守としての地位を

確立されたのもこの頃であると思はれる。『左經記』によると後一條天皇の寛仁元年

(1017) 十月の一代一度の大奉幣には五畿七道の四十八社中の一にはいつてゐる。古代

中世の本社については詳しくは知りやうがないが、平將門・藤原純友の誅伏祈願、

源義親誅伏祈願、元寇降伏祈願等のことが社傳に見え、軍神として崇敬されてゐたこと

が知られる。

 中世末から近世にかけては記録もやや豊富になるが、美作國を領した武將・大名等、

すなはち赤松・尼子・毛利・浦上・宇喜多・小早川・森・松平等の諸氏は必ず神領およ

び祭祀料の寄進、社殿の修復、祈請等を行なつてゐる。この場合、ほとんどは総社およ

び二宮高野神社と同じやうに處遇されてゐるやうである。といふことは、本社が特に

軍神として崇敬せられたといふよりも、美作國の代表的な大社として尊崇せられたと

いふべぎであらう。なほ、現存の社殿は天文二年(1533)に尼子晴久が美作に侵入し、

本社に陣する敵を攻略するために火を放つたために焼亡したものを、美作平定の後に

晴久自身が再建したものである。

なほ、中世末期からではないかと思はれるが、江戸時代の頃には本社最大の祭杷である

四月の二の午の日の御田植祭は盛大を極め、當日より五月四日まで本杜境内で牛馬の

市が行なはれ繁昌した。そのため本社はまた農耕神としても牛馬の守護神としても崇敬

された。鐵の神としての御神徳は、鐵を原料として武器を製作するところから軍神ともなり、同じく鐵を原料として農具を製作するところから農耕神ともなり、農耕にかかせ

ない牛馬の守護神ともなり得るのであつた。

 最後に、神佛分離前の本社と佛教の關係について述べておかう。本社と同じ西一宮村

に慈學大師の創建と傳へられる天台宗の寺院、眞應寺がある。この眞應寺の傳による

と、中山大神の本地佛は文珠菩薩で、長良峯には文珠堂が存したといふ。また、四月の

神田植祭や九月の秋祭においては眞應寺の憎によつて大般若經が轉讀(転読)されて

ゐた。また『美作一宮誌』によると、國家有事の際に本社において御鉾祭を行なつた

が、このとき小原村の神宮寺の憎によつて仁王經が讀まれたといふ。この神宮寺は今は

廢寺となつてゐる。また、和銅七年(714)の創建と傳へられる黒澤山萬福寺も本社と關係

が深かつたと思はれる。中山神社の北方約四キロメートルの黒澤山で田邊郷の猟師の

前に虚空藏菩薩が化現され、佛堂を管んだのが萬福寺のはじまりであるといふ。黒澤山

で鐵を求める入たちによつて信仰せられたのであらう。とすれば、中山神社を奉齋する

者とも共通する。しかも中山神社の境内の側を萬編寺の参道が通つてゐるのである。

『作陽誌』に中山神社の異猿が毎月十二日に黒澤山に登つたといふ萬福寺の傳を所載し

てゐるのも、古くからの両者の深い結びつきを示してゐるといへるであらう。

                           以 上 (次稿に続く)