中山神社 名神大社 (美作国)②

『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』(熊谷保孝:滝川高等学校教諭) では、

 

【祭神】本社の主神についての説は多数存する。そのうち最も有力なのが鏡作尊とする

説で『中山神社縁由』等が採つてゐる。類似の説に石凝姥命・天糠戸命・天鏡命・

金山彦命とする説もある。産鐵・製鐵の神として崇敬せられたところから生じた説で

あらう。

 また『延喜式頭注』等は大己貴神とする説をとなへてゐる。地主神と考へたのであら

う。しかし、社傳では大己貴神は中山大神に宮地を譲られ、みつからは境内の祝木

(いぼき)神社あるいは國司(くにす)神社に退かれたといひ、また相殿神を大己貴神

ともいふので、この説は成り立ち難いと思はれる。『諸國神名帳』は中山祇神としてゐ

る。前者同様に地主神と考へたところから生じた論であらう。

 また『作陽誌』は吉備武彦命説をあげ、『大日本史』や『神祇志料』では吉備津彦命

説をあげてゐる。本社が美作國分立と共に吉備國の守護神たる吉備津神社の御分靈を

勸請したとする先述した推測が正しければこの説が妥當(だとう)といふべぎことはい

ふまでもない。

 なほ、今昔物語集宇治拾遺物語には中山神社の祭神は猿神であるとの説話を所載

してゐる。鐵の神としての本社の御神徳は砂鐵の採取や製鐵のための木材を求めて山に

入る入々によつて信仰されたところから山神ともなり猿神と考へられたのか、本殿の

裏五〇メートルほどのところに祀られてゐる猿神社の信仰が都の入々に傳へられたのか

は不明である。

 相殿社は大已貴神と瓊々杵尊とする説が有力である。古代の美作は背後の出雲の勢力

がおよぶと共に、津山盆地が湖だつたこともあつて、吉井川をさかのぼつて吉備海部な

ど海人族も進出してゐた。出雲勢力の象徴である大己貴神と海人族が傳へたと思はれる

日向神話の代表的な神である瓊々杵尊を相殿神として配祀したことは自然であらう。

本殿内には等身よりもやや大きな三體の木の御神像が安置されてゐるといふ。

 このほかに本社にはもと百十二もの囁末杜が存したが、その大多数は尼子晴久の攻略

によつて燒失し、今日では境内に五杜が鎭座されるのみである。本殿および拝殿の西側

に南から總神殿、國司神社、御先神社とあり、本殿裏五〇メートルほどのところに猿神

社がある。總神殿は燒亡前の攝末社および美作國内の全神祇を祭祀するといふ。國司

神社は中山神がこの地に遷り來られる以前に鎭座されてゐた大已貴神が祀られてをり、

御先神社は稲荷神が祀られてゐる。猿神社は猿多彦神といひ、本社では安産神として

崇敬されてゐる。今昔物語集にいふ「中山は猿神」といふのはこの神のことかも知れな

い。なほ本社の大鳥居の前に大きな老木があり、これを祝木(いぼき)と称して地主神

の大己貴神が祀られてゐる。この神が境内に遷されたのが國司神社であり、また相殿神

としても祀られたのであらう。なほ、『中山神社縁由』には、中山神がこの地に鎭座さ

れたのち、地主神の大己貴神を奉齋してゐたこの地の豪族である伽多野部乙丸を久米郡

弓削郷に追放したといふ贄賂㹳狼神(しろごろうのかみ)なども所見するが、今日は

攝末社として残つてゐない。

 

【祭祀】本社が明治四年六月に國幣中社に列せられてからは、二月二十四日の祈年祭、

四月二十四日の例祭(御田植祭)、十一月二十三日の新嘗祭が大祭とされた。今日の最も

盛大な祭祀は四月二十四日の例祭(御田植祭)と十月二十一日の大祭(秋祭)である。秋祭は

維新前は旧暦の九月二十一日に行なはれてゐた、この両祭共に神幸があつたが、秋祭の

神幸は過疎化のため神輿の擔(担)ぎ手となる若者が滅少し、昭和五十二年度は中止

された。

 維新前の主な祭祀としては正月二十一日の春祭、四月三日の夏祭(根本式)四月二の

午日の御田植祭、九月二十一日の秋祭、十一月二の午日の冬祭があり、その他七日祭、

御鉾祭など恒例、臨時の諸祭があり、朝廷や武將から奉幣されたり祭祀料の寄進を受け

たりしたこともあつた。

 一月二十一日の冬祭は牛王(ゴオウ)を印して頒布したので牛王祭とも称されてゐ

た。今日はこの祭祀は行なはれてゐない。

 四月三日の夏祭は、本社がはじめてこの地に鎭座された日を記念する祭祀で根本式と

いはれてゐる。この祭りは神主を世襲する美土路家が近郷の初穗を取り備へて執行し、

また能樂(神扇能)を奉納してゐた。天正年中には毎年若鶴大夫が來てゐたといふ。

 四月二の午日(のち二十四日に定着)の御田植祭は維新前においても本社の最も盛大な

祭祀で、初日より五月四日まで廣範圍の商人が集合して諸物の交易や牛馬の市が繁榮し

た。この祭は五穀豊穣、牛馬繁昌を願ふもので、倉稻神の御神幸があつたといふので、

元來は中山神の祭祀ではなく、内陣に鎭座されてゐた倉稻神の祭祀であつたのであら

う。ところが、津山盆地の湖が後退して水田が拓かれて行くと農耕神への期待が大きく

なり、倉稻神の祭祀が本社の中で盛大になると共に主神も本社主祭神の中山神にうつつ

て行つたのであらう。このやうにして中山神は鐵の神としてよりも、農耕神、牛馬の

守護神としての崇敬が強化されていつたのである。現在、倉稻調は末社御先神社として

祀られてゐるが、祭祀は中山神に完全に吸牧されていつたといふべきであらう。前述し

たやうに、鐵の神は鐵を原料として農具を製作するところから、農耕神への變化は容易

なのである。なほ、この日には眞應寺の社僧によつて大般若經が轉讀されてゐた。

 秋祭(大祭)は現在は十月二十一日であるが維新前は旧暦の九月二一日であつた。鳥居

までの神幸と流鏑馬の儀があり、また眞應寺の社僧による大般若經の轉讀もあつた。

九月二十一日は中山神が霧山で有木といふ猟師の前に化現されたのが慶雲三年のこの日

であつたと傳へられてゐる。

 冬祭は荷前祭あるいは御柱祭と称して十一月の二の午日に行なはれた。この祭は荷前

祭主である東内氏と有木氏が美作國を東西に分つて取り集めた荷前を神前に供へ、また

御鉾・白幣を神前に奉る儀である。鉾と荷前の組みあはせは、東内・有木両氏の

祖によつて、先住の入々を軍事力を背景に征服し、あるいは平和的連合の證としての

荷前の献上といふ中山大神の勸請過程の再現で、根本式と共に重要な祭祀といふべきで

あらう。

 これらの諸祭の他に古代の獨特の祭祀も記録せられてゐる。すなはち、神鹿祭(御鹿

祭)がそれである。中山大神がこの地に鎭座されて後、以前より大己貴神を奉祭してゐた

伽多野部乙丸といふ豪族が、中山大神の神威を嫉妬したため、中山大神の眷属神である

贄賄㹳狼神が怒り、伽多野部一族は滅されようとした。そこで伽多野部乙丸は過ちを

悔い、これからは毎年鹿二頭を献じることを誓つて久米郡弓削郷に移住した。これが

神鹿祭の起源である。しかし、やがて贄賄㹳狼神を勧請した志呂神社が弓削郷に創建さ

れるとそこに鹿を供へることとなり、中山神社の神鹿祭は行なはれなくなつた。これは

中山大神の祭祀といふよりは囁社贄賄㹳狼神社の祭祀であつたのであらう。

 

【社殿】本殿は南向きの大社造で、聞口四問・奥行三間。永緑二年に尼子晴久の建立し

たものであるといふ。國指定の重要文化財である。屋根は檜皮葺で、近くは昭和四十六

年に葺き替へ修理がなされた。幣殿は間口二間・奥行一間。拝殿は聞口六間・奥行三間

で、共に檜皮葺。近くは昭和二十七年に葺き替へられた。拝殿東に間口五間・奥行三間

の神餞所があり、幅一問・長さ六間半の廊下で拝殿と結ばれてゐる。その北(本殿東)に

は間口一間半・奥行二間の神厩殿がある。拝殿の南西には開口六間・奥行三間の神樂殿

であり、その北には二間四方の総神殿がある。そこから北へ(本殿および拝殿の西)摂末

社の國司神社、御先神社とあり、本殿裏にはボンプ庫・神庫・猿神社がある。

 

【境内地】長良嶽の東麓、鵜の羽川との間に鎭座する本社は廣大な境内地をもつ。

その廣さは二一、七二五坪にもおよぶ。この境内地は社殿西の長良嶽をも含んでゐる。

大正元年建立の石の大鳥居をくぐると、参道の両側にケヤキ・スギ・ヒノキ等の大木が

日光をさへぎつてゐる。境内地に石燈籠は含せて九基。大鳥居両横の文化十三年建立の

ものは高さが二間半もある。安永元年(1772)建立のもの一基、天明元年(1781)建立のも

の1基、明治元年建立のもの一基、明治四十一年に日露戦争戦勝記念として建立された

もの二基、年代不明のもの二基。

狛犬は計二對ある。明和九年(1772)に建立されたものと、明治四十一年に目露戦争戦勝

記念として建立されたものである。

 他に、昭和三十五年に建造された臺(台)座二聞四方の牛像、昭和三十八年律立の

自鳳司碑、昭和五十一年建堂の安藝歴歌碑、昭和二十八年建立の總神殿、御先社、

祠厩舎の屋根葺替完成記念碑、昭和三十五年建立の銅牛再建・貯水池改修・手水舎移轉

屋根葺替・神門屋根葺替・渡廊下修理完成記念碑がある。石の大鳥居と拝殿の間には

鵜の羽川にそそぐ小川があり、その丸い石橋を渡ると木造の神門がある。これは津山市

重要文化財に指定されてゐる。神門をくぐると砂利を敷ぎつめた清楚な廣前がある。

拝殿左前方に樹令数百年におよぶと思はれるオホチの大木があり、根元には小社が祀ら

れてゐる。

 

【神職】戦前は國幣中社として相當数の神職が奉仕してゐたが、そのうち禰宜をして

ゐた白岩直樹氏が戦後は宮司を務められ、今日に至つてゐる。氏子區域は津山市

西一宮・東一宮・山方・古觀音寺・東田邊・西田邊・野邊・上河原の諸地區で、氏子数

七〇〇戸である。

 

【寳物】本殿建築が國指定の重要文化財、神門が市指定の重要文化財である。この他

未調査ではあるが、本殿内に三軀の人體よりも大きな御神像があり、戦國期のものと

思はれる。神厩殿には牛馬像が各二體ある。古代・中世以來の實物遺文の大部分は永緑

年中の尼子氏の攻略によつて焼失した。本社關係の現存の諸史料・諸文献は『中山神社

資料」として編纂されてゐる。                 以  上