『藤井』の由来:久世に白猪屯倉はあったのか? 異説もあります!!

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『古代吉備王国の謎』山陽新聞社
西大寺図書館で借りられます。

『藤井』の由来

 吉備五郡におかれたという白猪の屯倉は、のちの美作に当たる地だった、とされていた。それは、『続目本紀』に神護景雲二年(七六八)に「美作国大庭郡人白猪臣澄人等賜姓大庭臣」とあるなど、奈良時代になり美作の大庭郡(今の真庭郡)に白猪臣と名のる人物がいた記録などがあったためであった。
 しかし後にも触れるが、吉備の東部一帯には特長的な焼物の棺があり、この陶棺と呼ばれた棺の一つのタイプに須恵質で切妻家形とした棺の一群がある。邑久平野やその周辺に多く分布している。この地は、先に見た牛窓湾も含め、吉井川の出口あたりの一帯である。この棺の分布するあたりこそ白猪屯倉の中心のあった所ではないかと考えるのである。白猪屯倉の経営に当った白猪史は後に葛井(藤井)連と名を変えるが、この地の、かつては備前一宮だったと言われている安仁神社のある所が、実は「藤井」という所なのである。古くさかのぼって中世の記録にも葛井と言う地名がこのあたりに出て来る。また平城宮出土の木簡にも「備前国邑久郡方上郷寒川里白猪部色不知□二尻」というのがあり、邑久郡には古くから白猪と関る人名や地名があったことも知られるからである.いずれにしても、吉備の東部に大変特長的な陶棺と白猪屯倉は無縁とは思われないのである。