藤井邑の新旧の往来

藤井邑を巡る往来(道路)は、時代によって、かなり変わって来ています。
まとめてみればなかなかおもしろいです。

①藤井湾があった(吉備の穴海のあった)平安時代以前
  → 牛窓・鹿忍から西行きは、半島を経て、「児島」の島へ海の道。
    主なる大移動は、海路が中心。

②藤井湾の沖積作用による、開拓地化。武士(藤井氏)の台頭
  → 新しい人的移動の始まり? 
    『北ノ路』の開拓。藤井邑の中心の移動、丸山から北へ。

幸島新田が出来、吉井川東岸の地形が大きく変わった江戸時代
  → 幸島新田が出来き、地形が変わり、
    牛窓往来を中心とする、人・物の移動が活発になる。
    ただ、新田を横切る様な往来は出来ず、徒歩での移動の道路は大きく変わらず!!

昭和天皇の行啓があった、大正時代
  → かっての、藤井湾の真ん中、新田の真ん中を突っ切る新しい道路が出来る。
    ただ、人家もなくあまり便利ではなく、相変わらず旧来の往来での移動が中心。

⑤バス路線の拡大(昭和)
  → 小型バスによるバス路線の拡大。ある程度道幅が確保できる道路の整備拡大。

⑥自家用自動車の普及(昭和40年代以降)
  → 移動の中心は、自家用車になり、徒歩での移動は無視される。
    主要道路の整備が中心となり、村と村をつなぐ細道は荒廃。
    岡山市の東端である「藤井邑」は、過疎化が進行!

    地図には存在するものの、実際はもはや通れない幅1m以下の道路が増えてきています。
    カントリー派の、ハイクリスト・サイクリストは注意が必要!です。


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