藤井村 の 史跡

地神様 in  黒住教 朝幸だより 9月づけ

今日片付けをしていると、「朝幸だより 9月」が出てきました。 「地神様」の記事がありました。山南地区には、23柱あるそうです。 よく数えたものです。 正富博行氏の「岡山の地神様 五角形の大地の神」では、山南地区はまったく触れられていません。 『y…

常夜灯 in 横江

藤井村、横江地区の「丸山谷川」にある、「常夜灯」です。 詳しく読めないのですが、江戸時代後期のようです。 めっきり秋めいてきた、8月下旬ですが、この常夜灯はずっと村の歴史を見てきたのでしょうか?

常夜灯 in 丸山

村の、要所には『常夜灯』があります。 この常夜灯は、丸山地区の、丸山谷川の古道里にゆく石橋の近くにあります。 道路の交差点の近くということでしょうか? ずんぐりした『常夜灯』で、珍しい形だと思いませんか?

「南光寺跡」お寺? 藤井村

藤井村には今は、お寺はありません。 いまも、大師霊場札所はありますが。 でも昔はあったのでしょうか? 小字で「南光寺」「というところがあります。 安仁神社の旧社地の東、音羽山の南西です。 でも石垣跡には見えないのですが? そういえば、藤井村の周…

ここにも、ミチシルベ<横江>

こんなところにも、ミチシルベがあります。 今は、人通りは少ない所です。かっては、通行が多かったのでしょう。 ここでも、「せきがみ宮」、そして「弘法寺」が出てきました。 いま、岡山市の区割り問題が話題ですが、かって同一地区であった「藤井村」と「…

藤井村のミチシルベ<横江>

田舎は平野部は、「たんぼ」ですから、旧道は「川土手」「山べり」だと思います。 新しい道は、たんぼの中に直線的に新設されます。 藤井村、「北ノ路地区」から南に行くと「横江地区」です。 ミチシルベは、 「ひがし うしまど」(青い道で、横江地区を横切…

藤井村のミチシルベ<北ノ路>

橋詰から藤井村へ東へ行くと、最初にあるミチシルベは、安仁神社への参道口です。 次のミチシルベは、そこから東に100m位?、丁字路にあります。 表示は、「牛窓かし乃」←→「せきかみ宮」です。 最初のミチシルベは大正11年で、こちらは13年で、2年…

藤井邑「一宮参道」「東 せきがみ宮」

「東片岡 橋詰め」から東へ、四丁? 安仁神社の参道があります。 そこのミチシルベには、 「一宮参道」「東 うしまど かしの」「せきがみ宮へ八丁」「西 岡山西大寺」 となっています。大正十一年三月建です。 橋詰めからの「行啓記念一宮道」は、大正十五年…

藤井邑への入り口

まだ大宮村が邑久郡だった頃は、藤井邑への入り口は、鹿忍からの東口だったと思います。 西大寺市になり、牛窓・千手との連帯意識が希薄になり、西大寺の枠組みの中 入り口は、西からの道に移行していったのだと思います。 最初のミチシルベは、県道28号「…

藤井邑へのミチシルベ(道標)

藤井邑の中にも、幾つかの「ミチシルベ(道標)」があります。 もちろんこれは、村外の人を意識したモノです。 当然、村内の人にはこのような案内は必要ありません。 それだけ、人の流れがあったということです。 安仁神社は勿論、結構「咳神様」を訪れる人…

藤井邑の新旧の往来

藤井邑を巡る往来(道路)は、時代によって、かなり変わって来ています。 まとめてみればなかなかおもしろいです。 ①藤井湾があった(吉備の穴海のあった)平安時代以前 → 牛窓・鹿忍から西行きは、半島を経て、「児島」の島へ海の道。 主なる大移動は、海路…

祠?いえ、某家の「屋敷守り」です。

藤井邑の祠達は、コンクリート製の「やしろ」をもっています。 ここにも、同じような「おやしろ」があります。 でもこれは、某家の「屋敷守り」です。 実は、この某家の先代は、「腕の立つ左官さん」でした。 今までのやしろ達は、この左官屋さんの手になる…

名も知らぬ祠(ほこら)達「山辺の小径」「咳神様」

藤井邑にも、名も忘れられてしまった「祠」達が多くあります。 今までに、「水神様」「コンタロウ様?」等を紹介していますが、『yamane』の知る限り、 下の2つ以外にも、まだ何ヶ所かあります。 でも、『yamane』の母親では、すでにその名前も分かりません…

お地蔵様(横江・北ノ路)

藤井には、南から「丸山」「横江・宮城」「北ノ路」の3地区ですから、お地蔵様も三尊いらしゃいます。 それぞれ個性的な、お地蔵様です。何故、こんなにお姿がちがうのでしょうか? お化粧は、初盆のお宅が担当します。 横江地区のお地蔵様です。 北ノ路地…

お地蔵様(丸山) 8月は、「地蔵盆」です。

暑い日が続いています。帰省ラッシュも始まりました。 ここ藤井邑もお盆の季節です。あなたもデスか?? 実はお盆の時期は、3種あります。 引っ越しが多いお家は、ご先祖様の精霊もいつ帰省したら良いか迷いますね! ①月遅れ盆:八月十三~十六日 → 多数派…

日露戦争先勝碑 安仁神社参道口

安仁神社の参道口に「日露戦争先勝碑」があります。 1904年(明治37年)2月6日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、 大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と中国満州(現在の中国東北部)を主戦場とした戦争です。 日露戦争の歴史を見るとやたら犠牲者の数…

忠魂碑 安仁神社「馬場」

藤井村の『忠魂碑』は、安仁神社、馬場の東端にあります。 最初は、「西南戦争」、次は「日露戦争」。やはり、『大東亜戦争』の殉職者は飛び抜けています。 小さな「大宮村」からもこんなに戦没者がいるとは驚きです。 この方々の犠牲の元、今があることを忘…

昭和の記録「国威宣揚」

備前といえば銘刀長船でしょうか。藤井村にも刀工がいらっしゃいます。 その工房の前にある、『国威宣揚』!昭和14年です。 国旗掲揚だったのでしょうか? この前で万歳し、送り出された人はどの位いたのでしょうか? 今となっては分かりません。

藤井村の祠『こんたろう様』?

『yamane』の家の近くにある祠です。「コンタロウ様」こんな名前のはずです。良く分かりません?? <昔々、とってもケチが男が居たそうです。でも亡くなるときに、 自分を祀ってくれるなら村を見守ってやる。と最後の見栄を切ったとさ・・> てな具合だそう…

御大師様 八十六番札所

藤井の札所 八十六番は、「北ノ路」と「横江」に相番があります。 「岡山県道235号橋詰千手線」を、千手から「北ノ路」坂道を下って行くと、正面にかわいい座像が見られます。

藤井村 古代塩田跡?

安仁神社がある藤井村はかっては海でした。 その当時の、産業の一つが、「製塩業」です。 邑久郡は須恵器の生産が盛んでした。 この「塩釜跡」は、藤井村が堤防により閉め切られ、江戸時代前の海岸線になった頃の、 安仁神社に納める、「御塩」を生産してい…

藤井村の「水神様」(?)

藤井村の横江地区、丸山谷川から少し離れた(10m位)所にある、「水神様」と呼ばれる『祠(ほこら)』です。 でもなぜこの場所にあるのでしょうか、この「祠」がある場所の近くの小字は、「貝殻塚」と呼ばれています。 当然、かっては、海岸です。丸山谷…

藤井村の「火打坂」

藤井村から、硫黄山の北側「下阿知村」への山道が「火打坂」です。 この「火打坂」からは、南側の「綱掛石神社」「安仁神社」また、西は遠く児島湾を望むことができます。 かって「吉備の穴海」を行く商船を知らせる「狼煙」をあげる場所だったのでしょうか…

藤井村 丸山谷川沿いの「水神様」

先週、「山南ほたるまつり」が「西大寺一宮苗圃公園」でありました。 「yamane」は、不在だったため行けませんでした。ホタルはいたのでしょうか? でも子供の頃、「丸山谷川」には乱舞していたけど、「藤井川」にいた記憶は無いのですが? その「丸山谷川」…

五角形の石碑『地神様(じじんさま)』

藤井にも『地神様(じじんさま)』有ります。お決まりのように川の畔です。 地神様は、結構いろんな所にあります。 これについては、「岡山の地神様 ―五角形の大地の神― 正富博行/著(吉備人出版)」に詳しく書かれています。ただ、旧邑久郡での調査は詳しく…

村はずれの石橋<藤井村>

藤井村の西の端、安仁神社から東片岡に続く、藤井川の土手の道につながる石橋です。 天気の良いゴールデンウイークの、ほのぼのと何もない、藤井村を見守る木々達です。 もう何年ここにいるのでしょうか?

八十六番札所

藤井にあるもう一つの札所 八十六番。横江と北ノ路に相番があります。 順拝の道順により、二ヶ所の内の一つにお参りしたのでしょうか? しかし、「邑久郡南巡り八十八ヶ所」の順番はどの様にして決めたのでしょうか? 理解しがたい所が何ヶ所かあります。 以…

八十七番札所からの眺め

遠くに児島湾を望む事ができます。眼下の藤井の小字『横江』地区は名前の通り、その昔は入り江でした。 邑久の海賊(=海部)にとって、吉備の穴海を行く船を監視するには少々不便な場所ですが、 古墳を作り、遠くを望むには最適な場所だったのでしょうか。

八十七番札所

藤井にある八十八ヶ所札所の内、二ヶ所ある二つのうち一つである、八十七番札所は、硫黄山の「大岩場」にあります。なかなか、良い眺めのと事です。

藤井の古墳。こんな所に!?

藤井には古墳がたくさんあります。でも、硫黄山の南斜面にあるのはわかります。 操山(みさおやま)の南斜面にもたくさんありますが、同じ条件でしょう。 でも、意外なところにも古墳があります。 下記の『邑久郡誌』にもある、「清谷(せいたに)」です。 …