石上布都魂神社 式内社(赤坂郡)

石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ)式内社:小社

赤坂郡6座の内の、1座です。

崇神天皇(もしくは、仁徳天皇)の御代に御霊剣を、奈良県天理市の「石上神宮」に

遷したと伝えられています。

【2007/12/16】【2008/05/01】【2008/05/03】に同神社の記事を書いていますが、

当時は、『ヤマト王権、吉備連合政権』説は考えていなかったので、物部氏が簒奪した

と考えていましたが、再考しなければなりません。

尚、同社は、『一の宮巡礼会』に登録しています。

備前国一宮の吉備津彦神社は、「 旧社格:國弊小社 延喜式:式外 」

同社は、「 旧社格:郷社 延喜式:小社 」

ちなみに、「安仁神社 旧社格:國弊中社 延喜式名神大社」です。

古来由緒ある神社とは思いますが、定義が不明です・・・?

少し不便な所にありますが、是非お参りしたい神社です!!

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岡山県神社庁』では

社格:郷社 ,鎮座地:赤磐市石上1448 ,御祭神 : 素盞嗚尊

由緒:当社は「延喜式神名帳備前国赤坂郡6座の内の1社である。備前国総社神名

 帳128社の中で正2位と記されている。古くは書紀一書に「其の蛇を断ちし剣を

 ば、なづけて蛇之麁と日ふ。此は今石上に在す。」また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿

 断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。

 「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から

 「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らか

 なり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されし

 と見えず。(以下略)」寛文9年備前藩主池田綱政が山頂磐座に在った小祠を造営

 復興し、延宝2年「社記1巻、社領20石」を廃藩まで奉納した。他に「備前一宮」

 として、今日「一宮巡拝」等で参拝者が増えつつある。

  山頂の社殿は明治43年火災に遭い現在地に移す。

  昭和20年「県社の資格有り」と認めたれた。

  現在拝殿は平成5年改築。

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『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』では、

【社名】吉田家本には「石上布都之魂神社」とあり、『大日本吏』は「石上布都之魂神

社」と訓んでゐる。『備前神名帳」総社本には「石上布都之魂神社」とあり、同一宮

左樂頭本には「布都神」、同神上金剛寺本には「從四位上布都魂大明神」、西大寺本・

廣谷本・大龍本及び『國内神名位階記』山本本には「從四位下 布津明神」とある。

『備陽記』(享保六年)には「布都之魂神社 韴霊神社」とみえ、『備前國誌』(元文四年)

には「師霊神吐」とあつて、これを「ふつのみたま」と訓んてゐる。

明冶以後は「石上布都魂(イソノカミフトノミタマ)神社」と称してゐる。

 

【由緒】創立年代を詳らかにすることはできないが、日木書紀に「其素盞嗚尊断蛇之剣

今在吉備神戸許也」と、また「其断蛇之剣號曰蛇麁正此今君石上也」と記されてをり、

種々の論考がなされてゐるか、實證(実証)性に乏しい。数例をあげると『備前國式内

書上考録』(明冶初年)に「古語拾遺曰、天ノ十握劔ハ其名ハ天ノ羽々斬。今在石上神

宮。古語ニ天蛇謂之羽羽言斬蛇也。同言餘抄日十握劔者劔長十握也。所謂柄長は十握者

非也。其名日蛇之麁王、亦名韓鋤、亦名天蝿斫、亦名天羽羽斬。其劔在石上神宮

或在吉備神部許。神名帳ニ大和國山辺郡石上座布都御魂神社、又備前國赤坂郡石上布都

魂神駐両國石上神霊、亦同所以有異説也。新作劔一千ロヲ蔵亍石上神宮者在干垂仁記、

私に曰く、此数書を以て参考ふるに、上古素盞鳴尊蛇を断の劔は當社に在事明らかな

り。其後崇神天皇の御宇、大和國山邉郡石上邑へ移し奉るとあれば當社を廃せられしと

は見えす、又延喜式名帳にも大和國と當國と両國に布都魂神社を載せられたれば、當國

石上神社を大和國に勧請して地名も石上といゝしならん。さすれは當國の石上本社なる

事も分明なり。又、垂仁天量の御宇に劔一千口を作りて石上神宮に藏むとあれば、蛇を

断の剣も當國にある事分明なり、され共、世かはり、時うつりて佛法盛に行れ、神道

次第に衰へ、石上ふるきむかしのことを知る人もなくなりければ、大守曹源公深く是を

なげき給ひ、延寶元癸丑年廣澤元胤に命して社記を作らしめ當社に奉納し、大松山村の

内にして地高二十石を神領とし、祠官金谷肥後を旧姓物部に復して祭事を司らしめ、

時月の禮奠(れいてん)おこたらず。又其後寛永七庚寅年寺社奉行門田市郎兵衛貴通、

作事奉行村瀬勘九郎俊重に命して宮殿を再造有りし。己來當社今に繁榮す。」と記され

てゐる。

 それをうけて『赤磐郡誌』(昭和十五年)には「此の社の元あつた風呂ノ谷山頂には、

突兀たる巖角が露れて、見るからに偉大なる感にうたれる。其の前に本宮と称する小社

がある。

 其の社後の神泉には、常に水をたゝへ、其の御水によつて、参詣者は疣(いぼ)其の

他の病を治する等、誠に神秘の感がある。是れ等に就いて考へるのに、元此の神社の

起りは、其の山頂の巖角を目標とした原始的信仰による磐境として始まり、滴々素盞嗚

尊の御佩(は)せの太刀を載いて、此處に小社を営みて、霊劔を納めて奉齋したもの

が、現在の本宮であらう。斯かる由緒ある尊き御社であつたが、崇神天皇の御代(仁徳天

皇の御代とも云ふ)に至り、此の御神劔を大和國に遷させられ、此の宮は留守宮になつた

事となる」と推考されてゐる。ただし、本宮の所在については、風呂谷の山頂(大松山)

が有力視されてゐるが、『備前國式内書上考録』(明治初年)には「大松山村の神社を

石上布都之魂神社と決定(キハメ)られしハ恐らくは違へるならむか。其は如何にとな

れば、本部ノ式外に天松神社、一本大松神社とある社を考たがへたるにて實ハ大松神社

なり。」として、「今般取調べたる中に宅美郷新荘村熊野神社とある。當社元権現とい

ひしを明治二年四月官許を得て熊野神肚と改號す。いと古き社にて寳劔を神體とせり」

と、又、「風土記に籏下里を石上布留の里と改むとあるを考ふれバ、前にいへる新荘村

よりは凡十町ばかり下に伊田村といふありて、同村八幡宮の當りに石上といふ田地の字

あり。またおなじ村に古へありし寺を今は隣村に移して幡降山極樂寺と號し、その村名

を幡地山村と云ふ。是等によれば布都之魂神社は伊田村に在しならむも知りがたし。」

と異論を載せてゐるが、いつれも實證性に乏しいやうである。

『撮要録』(文政六年)に、延寳四年「赤坂郡石上村韴霊宮領二拾石之内、三石社領

八石物部肥後・二石頭神子・六石禰宜六人・一石神子二人。右之通可配分旨可被申渡候

己上」と宮領配分が定められたとし、寛文九年の「棟札」として、「山陽道備前州赤坂

郡平岡荘大松山布都魂社者西國之守護神而萬方之霊鎭也霊壇已歴星霜殆及荒発時之御奉

行俣野善内伯景御代官後藤小左ヱ門久光當社祠官野村肥後橡藤原忠正御断申被添御力材

木本キ時福島九兵衛尉令進氏子之志力奉建立五代之傳布都魂神社正夘令野村肥後藤原

忠正奉遷宮伏願正梁後霊應(レイオウ)日新神威四方振國家泰寧氏子藩榮上下和閑書尒

(しかり)」と載せてゐる。

 これらをまとめて『石上布都魂神社略記』(昭和二十年頃)には「わが國の古傳承を

記してあります古事記日本書紀古語拾遺という本によりますと素盞鳴命(天照大神

御弟神)が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇(やまたのおろち)

をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。その剣を天照大神に奉られ

た。また大蛇をお斬りになった創を「蛇の麁正」(おろちのあらまさ)「羽々斬剣」また

は「布都斯魂剣」と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが

當社の鎭祀されたおこりであります。なお布都斯魂大社は仁徳天皇の御代に大和國石上

神宮―現在の奈良縣天理市布留へ當社からお遷りになりおまつりされております。

かように當社は由緒の深い著名な武の神をご祭神と仰ぎまつり、また治國平天下、愛育

(いつくしみ)の神とおしたいしております大神てあらせられましたので、備前岡山藩

池田光政公は特に、寛文年中に當社をご再興になりついで綱政公は延實二年社領として

二十石を、また寛永七年にご社殿を造営されました。(當時は山上にご建立)」と記され

てゐる。

明治六年布告第八五號を以つて郷社に列せられた。次いで昭和二十一年一月十日、

縣社に列せられた。

【所在】現在の鎭座地は、赤磐郡吉井町石上字風呂谷一、四四八番地(旧赤坂郡石上村)

である。國鐵の津山線金川駅の北北西約九キロメートルのところであり、古代の赤坂郡

宅美郷にあたる。明治四十年に大火があり、山上の社殿・神楽殿等が灰燼(ハイジン)

となり、大正四年に山の中腹に遷宮されたものが現在の社殿である。

【祭神】『神社明細帳』(明治三年)・『延喜式内神社國史見在之神社』(明治初年)には

「十握劔」とされてゐる。『大日本史』では「素盞鳴尊斬蛇剣」、「特選神名牒」には

「布都之魂神」とし「此の石上は一書に吉備神部許とあるを以て備前の石上布都之魂神

社これなりと云説もあるより祭神十握創と云るならめと實は大和石上神肚の神寶を備前

へ遷し本社の神霊をませ奉りて社號にも石上と負せしなるべければ祭神布都之御魂神と

申さん方正しければ訂して記しつ」といふ。紳社明細書(昭和二十七年)には「素盞鳴

尊」とされ、當社より発刊されてゐる『石上布都魂神社略記』にも「素盞鳴尊」とされ

てゐるが、明治の郷社列格にあたつて、御魂を祭神とすることがタブー視され、

素盞鳴尊」を祭神としたといふ傳承がのこされてゐる。

【祭祀】例祭日は、十月二十日、二十一日である。そのほかに、祈念祭が四月十五日、

夏祭が旧暦六月十一日、新穀感謝祭が十一月二十三日である。

現在、宮司は物部忠三郎氏である。氏子は八十戸であるが、崇敬者は数千人に及んでゐる。

【社殿・境内地】現在の社殿は、大正四年に建立されたものである。本殿は流造、

間口一間半・奥行一間。それに二坪の幣殿と一坪の拝殿を伴つてゐる。そのほか、

燈籠四基・鳥居四基・手水舎一棟がある。山上の元宮には假社殿が設けられ、背後の

巨岩一帯が禁足地とされてゐる。境内地は飛地も含め八、一一〇坪あり、周邊は森林で

囲まれ、荘嚴な氣風が保たれてゐる。末社八社あるが、いつれも旧布都美村内にある

神社で、鎭座地は変わらず、石上布都魂神社の飛地とされてゐる。

【追記】『東備郡村誌』(天保期)の赤坂郡竹枝荘大田村の條には「下谷妙國寺と云ふ

佛刹あり。昔此寺に日本晦望録・備前風土記・日本私記・和氣譜・民部省例等の書数部

あり。晦望録と云は吾邦往古の暦方なり。全部十五巻。風土記備前國中の地理・

産物・人物・古談等の逸事を記す。全部十一巻。私記は和氣氏に上古より記傳する處の

史書全部三十巻。和氣譜は和氣代々の家譜也。全部五巻。民部省例は朝家の旧禮・古

事・諸家の美談・逸事等のことを記す。全部二十巻。みな絹地錦表玉軸なり。是みな

和氣清麻呂の著述にて、和氣廣虫・和氣廣世等の書なりとぞ。惜いかな此寺元禄五年の

春回禄して、此書巻悉く灰櫨となる。

此書もと石上韴霊神社の社藏なり。清麻呂自ら納むる所悦。然るに応永の頃、松田元

下知して此寺に納むるもの也。」とし、和氣氏が石上布都之魂神社と關係があつたとし

てゐる。しかし、残念ながら、より詳らかにする史料はまつたく見られないやうであ

る。

 素盞鳴尊との關連について『赤磐郡誌』は「謹で案ずるに、素盞鳴尊の帯びさせ給ひ

し韴霊劔は、一名蛇韓鋤とも云ふ。総べて韓とか呉とか云へば、外國よりの到來品を

意味するもので、素盞鳴尊の八岐大蛇より得させられた神劔は、韓とも呉とも云はない

處が不思議で、是れは慥(たしか)に、我が國産品であらう。三種の神器の一、叢雲劔

が國産品としたならば、之れを何處で鍛錬したかと云ふ問題が起る。我が國で劔工と

云へば備前備前と云へば我が郷土卽ち赤磐郡及其の周邊を込めた地である。其の内

最初の古劔工は、私共の研究で云ふと、此の宅美劔工を以て、第一のものとする。

(中略)此の宅美劔工のゐた水上、卽ち宅美郷の北端で、旧作州往來の上に聳(そび)

ゆる、石上なる風呂ノ谷山に、神鎭まります布都魂神社は、元、素盞鳴尊の帯びさせ給

ひし、韓鋤卽ち韴霊劔(鋭利なる荒魂、卽ち名刀の意。)を御霊代として齋き祀つてあつ

たが、崇神天皇の御代、之れを、大和國山邊郡石上神宮に遷され、物部・佐伯の二氏

が、祭事を掌ると云ふ。此の石上神宮の境内には、物部・佐伯両氏の祖神を祀る末社

石成(いわなし)社がある。(後烙)」と推論されてゐる。

(入見彰彦:岡山県総務部懸史編纂室主幹)             以 上