赤坂郡の式内社は、 6座(並小)です。すべて、北部山間部です。
石上布都之魂神社 ( 岡山県磐市石上 ) 【 2024/08/06 】投稿
赤坂郡は( Wikipedia )では、
『 古くは和気郡の一部や磐梨郡も本郡の一部だった。そのため西は旭川から東は吉井
川まで達する広範囲の郡域を持っていた。現在の赤磐市山陽町地域西部の
龍王山・大錫丈山・上地山・当殿坊山・牛神山・善応寺山などの山地の東側に続く
丘陵地一帯が赤坂と呼ばれていたことから、それに由来する郡名といわれる。 』
布勢神社 ( フセジンジャ )
旧社格 郷社
鎮座地 赤磐市仁堀西1027
由緒 : 本神社は延喜式内の旧社。古伝に垂仁天皇の御字、南海の渡船?々転覆の
難があり、帝、博士に命じて、占わしめ給うに、「こは吉備の国布勢大明神の神威な
り、社殿を七谷七畝の山麓に遷し、北面に勧請ありたし。」と奏上した。よって現在の
山麓の地に勧請し、社殿を造営したと伝えている。寛文九年に再建。池田光政公が、
本殿を造営した。仁堀庄十ヶ村の大社で、明治六年に郷社に列せられた。
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( 人見彰彦:岡山縣総務部縣史編纂室主幹 ) では、
【社名】吉田家木には「布勢(フセノ)神社」と傍訓が付されてゐる。
『備前國神名帳』総社本に「布勢神社」、同一宮左樂頭本に「布施大神」、同山本本・
西大寺本・廣谷本・大瀧本に「從二位布施大明神」とある、近世の諸書にも「布勢」・
「布施」の両方が用ゐられてゐる。現在は一般に「布勢(フセ)神社」としてゐる。
【由緒】創立年代を詳らかにすることはできないが、正徳三年(1713)十一月二四日に
書かれてゐる社記を『備前國式内書上考錄』(明治初年)で見ると、
仁堀西村名主紋三郎が家に持たる書付の寫、是はいと拙き書なるが上に、虫食さへ
ありて、いと分別かたけれど、龍天山の鳥ケ仙に鎭座ありし事のあかしに記しおき
つ。
赤坂郡仁堀荘西村布勢大明神宮 語傳
布勢之御神、古昔垂仁大王之御宇と哉覧ニ龍天山之嶺ニ御座候て、則龍天より見へ
の南海舟を御痛メ東西の舟渡海□成ニ付、於御帝博士召出し、見届の勅使に大貮と
申人御下り候處、神罰哉覧、壹町斗前にて御果被成、則御墓御座候。其後、大納言
腰帶と哉覧、卸下り倒見届之由。
一、ふもとへ下ケ、七谷七畝有之所ニ北向二勸請被成候て、南海の舟破損有之間鋪
と、博士さうもん仕候由事。
一、宮山七谷七畝御座候。御宮ハ則帝御造立之由。御宮作三間ニ五聞之御宮。
但し三社作り床より上ハ屋根裏まて朱さハ起ニて御座候。
一、屋根檜彼(皮)損シ、百五拾年斗以前ニ屋稱替仕候得共、棟札朽文字も聢
(しか)と見へ不申、其時分捨り申候。
一、右之御宮所、山之下北向ニ付、一圓日請悪敷、寛文年中ニ殿様より御米五石、
伊賀様より同五石被爲下、竹木ハ御宮林にて被下、新宮東向ニ造立被仰付候。
一、右之神社御祭禮八月十五日、神事御幸等御座候。此入用として神前之布勢開
壹町六反、境内御免地ニ御座候處、何時よりか御公儀地ニ成居申候。則、仁堀庄
拾ケ村々大社にて御座候。尤けいだいの御帳面ニ御附被爲成候と申傳御事。
神職 小岩又八郎 五入組頭
忠右衛門 名主 助四郎
正徳三年巳十一月廿四日
右之書上、古昔より之語傳之通相違無御座候 以上。
加世藤三郎様 大庄屋廣戸村 淸右衛門
としてをり、それをもとにして『赤磐郡誌』(昭和十五年)では、「傳説」として「昔
龍天山と相並ぶ鳥ケ仙の頂上に、南面して祀つて在つたのが、布勢神社であつた。
然るに沖合瀬戸内海を通ふ船が、次ぎから次ぎへと難船するので、ト(うらな)つて
見た處が、此の御山の布勢神の御神慮によるものと分つたので、(中略)北向きの地で、
七曾根・七谷有る山を探し求めて、御遷座申上げたのが、今の布勢神社である」と記し
てゐる。
また、當社の『棟札』には「山陽道備前州赤坂郡仁堀西村布勢大明神者、西國之守護
神而、萬方靈鎭也。靈檀已歷二星霜一、殆及荒廢。時之御地頭 池田伊賀守・御奉行
俣野善内伯景・御代官小寺久衛門重高・當社神職小岩忠兵衛尉 御断申、被レ添二
御力一、材木本主時杉本六郎衛門尉令レ進二氏子志力一奉二建立一、王代傳二布勢大明神
正印一、令三藤井主馬源忠直奉二遷宮一。伏願正梁後靈應日新、神威四振國家泰寧、
氏了蕃榮上下和樂云爾。寛文九己酉十二月朔日、所作大工藤原朝臣、西勢實村、六左衛
門尉
氏子中、仁堀西村二石三斗、同加茂領同村一石二斗四升、同 廣戸村二石二斗四升、
同 中村一石五斗、同 東村九斗六升、同 河原毛村二斗三升、同 上鹽(塩)木村
二斗五升、同 戸津野村二斗、同 中勢實村六斗、同 西勢實村六斗四升、同 小鎌上
村五斗七升、同 下荘村一石二斗 」
と記されてゐる。神社明細書(昭和二十七年)には「寛文九年再建、池田光政寄進、同年
十二月朔日の棟札あり。旧藩時代には藩主より社領壹石八斗の寄進ありしも明治維新に
至りて廢せらる」とある。
明治六年郷社に列し、大正四年一月二十日に八播宮(祭神、仲哀天皇・応神天皇・神功
皇后)、熊野神社(祭神、紀州熊野神)、天津神社(祭神、天御中主尊)の四社を合祀した。
【所在】現在の鎭座地は、岡山懸赤磐郡吉井町仁堀西字布施谷一、〇二七番地(旧赤磐郡
仁堀西村、山陽本線瀬戸駅より二十キロメートル)である。縣道岡山・美作線の吉井町
仁堀中より、西方に約三キロメートル入つたところに鎭座。神社明細書(昭和二十七年)
の「布勢巨明神、由緒」に「龍天山は備前國五高山の内最も勝れたる名山にして、古昔
式内布勢神社此山に鎭座ありしが、後世本村大字仁堀西へ移轉せられ、今、布勢巨神社
(祭神、事代主命・伊弉冉尊・伊弉諾尊)のみ當山に鎭座まします。本社は古昔より郡中
の祈雨、祈晴、祈穀の神殿として著名である。」といふ。龍天山(標高四八三メートル)
は現在の布勢神社より約一キロメートル東方にあり、比頂には花崗岩でつくられた華麗
な本殿を持つ布勢古神社が鎭座。そこから現在地點への遷宮年代を詳らかにする記録は
ないやうである。
【祭脚】本社の祭神は大穴牟遅神(昭和二十七年の神社明細書)である。しかし、明治
三年の『神社明細帳』には「祭神、大己貴命・大彦命・天鈿女命(あまのうずめのみこ
と)・勸請󠄁年記不詳」と記されてゐる。
『特選神名牒』では「今按明細帳に祭神大彦命、大己貴神、天鈿女命とあるを注進状
には大名牟遅神と改めたり。新撰姓氏錄に阿都朝臣孝元天皇皇子大彦命之後也。
布勢朝臣阿部朝臣同神とみえて、布勢神社は必ず大彦命を主と祭り大名牟遅神等をば
相殿に祭れるなるべし故訂して記せり」とされてゐる。だが、大名牟遅神を主神として
祀り、現状にいたつた事由を詳らかにするものは見あたらないやうである。境内神社に
稻荷社(祭怖、稻倉魂命)がある。
【祭祀】春祭が四月三日、例祭日が十月十四、十五日、もと八月十五日(『神社明細帳』
明治三年)、霜月祭が十二月十八日である。
現在の宮司は在里巍氏(久米郡久米南町全問に居住)であり、氏子は七〇戸。神社明細
書( 昭和二十七年 )には「氏子数一九八人・崇敬者数一七七人」と記されてゐる。明治
初年、六九戸(『延喜式内神社國史見在之神社』)。(布勢神吐より南方、約一・五キロ
メートルの箇所に式内社鴨神社が鎭座。現在、宮司・氏子は同じ。また春祭・秋祭も
同日に行なはれてゐる。)
【社殿・境内地】現在の社殿は東面して建てられ、本殿は流造。間口二間・奥行二間、
檜皮葺で、布施谷の山裏に東面して祀られてゐる。幣殿は建坪三坪、拝殿は建坪六坪と
なつてゐる。そのほか、建坪四坪五合の籠殿、建坪二坪の社務所、燈籠、手水鉢があ
る。境内地は七、四七七坪あり、周邊は森林で圍まれ荘嚴な氣風が保たれてゐる。
なほ、『備前國式内書上考錄』(明治初年)には「軽部郷仁堀荘仁堀西村 田畠名寄帳に
字を 宮内・布勢宮ノ下・有勢谷・小馬場・猿場見・是等皆この社に属たる名所なり。
門田・按免・神子田・五月田・五月田谷・霜月田、これらは、また當社に附たる古への
祭田なるべし。」とあり、また、延寶三年(1675)の『御國中神社』( 岡山大學所藏・
池田家文庫 ) には「布勢大明神、延喜式之神ニ御座。神主、小岩忠兵衛。代々口上ニ
由傳ハ、從内裏様御造営と申傳候。先年ハ社領壹町六反御座候へ共、慶長九年之御儉地
ヨリ御年貢出之申候。残る高九斗唯今迄 御付ケ被爲成候。」とあつて、古く當社は
相當の祭田、社領を有してゐたやうである。
以 上