鴨神社 3座 式内社 (赤坂郡)

昨日の、『布勢神社』の近くにある、『鴨神社』です。

宮司、氏子は、重複します。

こんなに近くに、何故、式内社が2社もあるのでしょうか?

古昔は、重要な地域だったのでしょう!

名前の通り、京都の上賀茂社と関係があるようです。

3座は、下記の様です。

鴨建角身命山城賀茂氏(賀茂県主)葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社

   (下鴨神社)の祭神として知られる。『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命

   神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して

   神武天皇を先導したとされる。

・玉依日賣命:神武天皇(初代天皇)の母であり、天皇の祖母である豊玉毘売の妹。

・鴨別雷命 :加茂別雷神社上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神

   社・鴨神社)で祀られる。

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岡山県神社庁』では、

鴨神社

カモジンジャ

社格 : 村社

鎮座地 : 赤磐市仁堀西678

由緒  :  本神社は延喜式内の古社で、京都上加茂大明神の御分社として、明治初年迄は

京都上加茂神社の社家松下氏、西池氏の両家が社務を統理し、本村で高百五十石を

領し、その収納で運営にあたったが、明治維新以来社家は廃止せられ、当地に社掌を

置き、造営等総て氏子の負担となった。当神社は古来雷除けの神として尊敬厚く、毎年

五月三日の雷除祈願祭には、近郷近在からの参拝が多い。

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『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』

( 人見彰彦:岡山縣総務部縣史編纂室主幹 ) では、

【杜名】九條家本に「鴨(カモ)神社三座」とあり、吉田家本・武田家木には

「鴨(カモノ)神社三座」と傍訓が付されてゐる。

【由緒】創立年代を詳らかにすることはできないが、神社明細書(昭和二十七年)に

延喜式内國幣に預る古社にて神階正五位なり。往古、京都上加茂の神を勸請せしもの

と傳ふ」とある。また近世を通じて當社周邊地が山城國賀茂社領であることからしても

賀茂別雷神社と深い關係がある。

 『吉備温故秘錄』(寛政年中、大澤惟貞編)には「京都加茂領、高百五十石、田畠八町

一段三畝十六歩、家数十六軒、男女八十六人。京都西池左兵衛領、高五十四石八斗六升

二合、家数五軒、男女三十一人。」、「己前は京都加茂神社松下三位社務を務めしが、

勅勘の後寺社奉行當社の祠官を支配す。今に毎歳加茂より社入來る。當村にて、高百五

十石、加茂領あり。今に御寄附。」と記されてゐる。

 また、社傳として『赤磐郡誌』(昭和十五年、赤磐郡教育會編)に「賀茂領又は西池

領とも称し、上賀茂領百石、下賀茂領五十石。都合百五十石であつた。領主松平摂津守

の御下代御差遣の時は、御迎へのため、領民卽ち氏子より二名を選んで京都に上らせ、

年貢の徴収を終らば、亦一名を附して、京都迄送󠄁つてゐた。」と、傳承されてゐる點を

記し、又史料として、同書に「白木机の銘。備州赤坂郡仁堀西村之内、宮内賀茂神社及

大破之間、令造営畢。彌奉祈一天安全國家豐饒者也。寛文五乙巳年十一月日造営、賀茂

領主、松下兵部大輔。同六丙午年十一月二十四日遷宮前神主、從四位賀茂矩久。奉御修

復文化三丙寅年三月二十二日、假遷宮、同文化四丁卯年六月十八目正遷宮遷宮主、

神主正四位下陸奥守賀茂是久。」及び「棟札、慶應元乙丑年八月吉日。上屋根再建立。

松下威丸様、禰宜、杉本石之丞、名主 永廣紋左衛門、下代、藤井又兵衛門」と載錄さ

れてゐる。

 昭和二十七年の神社明細書の由緒の項にも「明治初年迄は、京都上加茂神社々家

松下氏が代々宮司として兼職し、本村より高百五十石を領し、収納の内を以て、悉皆

造螢修繕せるも、維新以來、京社家は廃せられ、當地に祠掌を置き、造螢は総て氏子の

負擔となつた。古來雷除けの社として地方の尊崇厚し。創立年月日は延喜以前、神階

正五位。旧社格は村社(明治六年二月一日列格)とある。

 

【所在】鎭座地は示磐郡吉井町仁堀西字馬場六七八番地(旧赤坂郡仁堀西村、山陽線

瀬戸駅より二十キロメートル)である。縣道岡山・美作線の吉井町仁堀中より、西方に

約ニキロメートル入つたところに鎭座。創建以來、現在の鎭座地を移つた記録はないや

うである。なほ、仁堀西は和名抄の赤坂郡輕部郷にあたる。

 

【祭神】本社の祭神を神社明細書(昭和二十七年)には、別雷神のみあげてゐが、『特選

神名牒』には、「鴨建角身命・玉依日賣命・鴨別雷命」の三柱があげられてゐる。

しかも、同書には「今按注進状に當社は往昔より山城國上賀茂神社旧神宮松下從五位家

にて累代社務取扱ひ來りしを明治四年五月御改正になれりとある。松下氏の社務を預る

にて本社の祭神もいと明か也。」としてゐる。思ふに、別雷神を祭神とする上加茂社の

神官松下從五位家が、代々社務取扱ひの中で別雷神が主神とされ、重観されていつたの

ではなからうか。

 境内には、稻荷社(祭神・稻倉魂命)・龍王神杜(祭神・海童神)が、明治三十三年六月

より祀られてゐる。

 

【祭祀】春祭が四月三日、例祭日が十月十八日、もと九月十三日(『神社明細帳」(明治

三年))。霜月祭が十二月十八日である。また、十年前より雷除けの祈願祭が五月三日に

とり行なはれ多くの人々が参詣してゐる。

 現在、宮司は在里巍氏(久米郡久米南町全問に居住)であり、氏子は七○戸。神社明細

書(昭和二十七年)には「氏子数一七七人、崇敬者一九八人」と記されてゐるが、現在は

布勢神社と重復してゐる。明治初年、一九戸(『延喜式内神社國史見在之神社」)。

(鴨神社より北方、約1.5キロメートルの個所に式内社布勢神社が鎭座。現在、宮司

氏子も鴨神社と同じ。また、春祭・秋祭も同日にとり行なはれてゐる。)

 

【杜殿・鏡内地】社殿は南面して建てられてゐるが、参道は東方につけられてゐる。

本殿は慶應元年(1865)に建立された流造、問口一間・奥行一間、檜皮葺で、周圍に

板塀を廻らしてゐる。幣殿は建坪四坪五合、拝殿は建坪六坪、間口三間・奥行六間とな

つてゐる。そのほかに建坪六坪の社務所、奉献塔・燈籠・手水鉢がある。鳥居は木製

臺輪附両部鳥居で東面してゐる。境内池は、四、八六〇坪あり、社頭の両側に三本杉と

称する古杉がある。境内周邊は森林で圍まれ荘厳な氣風が保たれてゐる。

 

【追記】『備前國式内書上考錄』(明治初年)に「吉備温古に云ふ、赤坂郡鴨神社は

式内の神なり。京都上加茂神主松下氏社務たり。今に爾宜一人を下し、宮守とす。

當村にて高百五拾石を寄附。仁堀西村の内に神原・宮下と云ふありて、當社神山の麓

また其邊の田畑の字とせり。」と記されてゐる。思ふに、明治六年の列格により、

鴨神社が村社、北方約一・五キロメートルに鎭座する布勢神社が郷社とされたため、

鴨神社は目立たなくなつていつたやうである。     以  上