宗形神社 式内社 (赤坂郡)

赤坂郡の式内社は、 6座・4社の一つです。

宗形神社 (ムナカタジンジャ)

不思議な神社です。赤坂郡の北部、弥生時代の「 是里遺跡 」の

中にあります。古代より、由緒ある場所ではありますが、山中で、

吉井川からも離れています。

なのに、祭神は「 宗形3女神 」 です。

また、「 仁徳天皇吉備國海部直女黒比賣 」伝説の所定としています。

何故でしょうか?

前述の「 布勢神社 」もそうですが、海部氏との関連が起想されます。

『 往古、氏子は七十五ケ村ありて、其區域西南は本郡高月村大字牟佐に至り、東北は

津山市小桁に至れりと云ふ。』と広く、吉井川と旭川に通じます。

旭川以東の備前式内社 」 は、本起稿で終わりますが、更に周辺(美作国

御野郡津高郡、他)の神社も調べれば、面白いことが分かるかもしれません!

宗形神社

 

 

 

岡山県神社庁』では、

鎮座地    〒701-2525 赤磐市是里3235

御祭神 宗形三女神( 多紀理毘賣命, 市寸嶋比賣命, 田心比賣命 ),

大己貴命, 大日霎命, 豊宇氣比賣命, 須佐之男命, 菅原神,速玉男命, 伊邪那美命, 事解男命,

大山咋命

由緒 : 当社は天皇十代崇神天皇の御宇勧請にして式内の旧社なり天皇十六代仁

天皇吉備國海部直女黒比賣を寵し本國山方に幸行さるるや黒比費帝を当社に奉迎し

方物を採り敬饗し奉る帝欣然御製に「 やまかたに まけるあをなも きびびと とも

にしっめば たぬしくもあるか 」と詠し給へり、是より以降今に至るまで諸人挙げて

山方の大宮と称する所以なり、当時帝より宗形神社神領として神地三四町神月若干を

附置かる、依て今に其の地名を京免及神戸と呼ぶ、後世慶長八年池田忠継公備前に封せ

らるるや深く当社を崇敬し全九年検地の節本村の内中田二反高三石弐斗社領として附置

かれ明治四年玉りて止む、加之歴代の皇室御崇敬の余り神付従四位上に叙せられ後

正一位に昇進贈位に預かる、現今の社殿は貞享四年八月世八日着手全五年五月十六日

落成(棟札)の建築にして氏子及大氏人民の協力造営に係り当時の国主池田綱政公より

再建費として玄米捨石下賜せられたり、往古氏子は七十五ケ村ありて其区域西南は

旧赤磐群島月村(現岡山市)大字牟佐に至り東北は旧久米南條郡福岡村(現津山市)大字小布

に至れりと云ふ、故を以て古へより古式祭には社家より神酒七十五樽・神韻1七十五膳・

神餅七十五台・甘酒弐瓶を献供す、(現在は神酒二斗五弁・神僕七十五膳・神餅は分五合と

し七斗を餅投げとしている)、明治十四年縣社に昇格せらる。( 現在一般的には社格

不問 ) 

・鳥居岡山県指定重要文化財(建造物)・本殿赤磐市指定重要文化財(建造物)

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『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』

( 人見彰彦:岡山縣総務部縣史編纂室主幹 ) では、

【社名】吉田家本・武田家本ともに「宗形(ムナカタ)神社」と訓んでゐる。『備前

神名帳』総社本には「宗形神社」、一宮左樂頭本に「宗形神」、『備前國神名位階記』

山本本「從四位下宗形明神」、西大寺本、廣谷本・大瀧本に「從四位上宗形明神」と

ある。

 

【由緒】創立年代を詳らかにすることはできないが、神社明細書(昭和二十七年)には

「當社は天皇十代崇神天皇の御宇勸請󠄁にして式内の旧社なり。天皇六代仁徳天皇吉備國

海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝を當計に奉迎し方物を探り、

勸饗し奉る。

帝欣然御製に “ やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくも

あるか ” と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸入𢸁て山方の大宮と称する所以な

り。當時、帝より宗形神社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今に

其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、備前に封せらるゝや深く當社を

崇敬し、同九年檢地の節、本村の内中田二反、高三石貮斗社領として附置かれ、明治

四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位從四位上に叙せられ、後世一位に

昇進贈位に預る。現今の社殿は貞享四年八月廿八日著手、㒰五年五月十六日落成(棟札)

の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當時の國主池田綱政公より再建費と

して玄米拾石下賜せられたり。往古、氏子は七十五ケ村ありて、其區域西南は本郡高月

大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。故を以て古今古式祭には杜家

(當家)より神酒七十九樽・神饌七十五膳・神餅七五臺(河見杜(當)より各四十、山方杜

(當)より各三十五 )、甘酒貮瓶を献供す。これ往古よりの旧例にして年々欽行し、旧式を

廢することなし。明治十四在六月十五日郷社に、同年十二月二十二日縣社に昇格せら

る。」と記してゐる、また、『赤磐郡誌 』(昭和十五年、赤磐郡教育會編)には次の寄進

状及び棟札が収錄されてゐる。

   應永二十九歳寅二月四日   河見村久保 孫市良

  奉寄進村添林一箇所      鍛冶屋村  八良兵衛

   永禄五壬戌八月十六日

  奉建立大宮御正殿一字     神職 門野甚左衛門

   大願主浦上遠江守宗景

  (裏面) 是里村 丼に郷中 氏子安全五穀成就中

 

 當社は明治十四年十二月縣社に昇格後、同四十三年二月二十一日に 村社

神峰神社 ( 祭神、大己貴神 )、同 神峰伊勢神社 ( 祭神、大日靈命・豊宇氣比賣命 )、

同 劍抜神社 ( 祭神、須佐之男命 )、同 素戔嗚神社 ( 祭神、須佐之男命 )、

同 天神宮 ( 祭神、菅原神 )、摂社 熊山神社 ( 祭神、伊邪那美命・事觧男之命 )、

村社 日吉神社 ( 祭神、大山咋命 )、同 熊野神社 ( 祭神、伊邪那美命 )を合祀してゐる。

 

【所在】鎭座地は、岡山縣赤磐郡吉井町字是里三、二三五番地(元赤坂郡是里村、山陽

本線和氣駅より十五キロメートル)、私鐵片上鐵道周匝駅西方六キロメートルの吉備高原

上に鎭座してゐる。創建以來遷座の傳承・記錄はない。なほ、是里は和名抄の赤坂郡

周匝郷の内に屬してゐたやうである。

 

【祭神】『神社明細帳』(明治三年)によると「 祭神、多紀理毘賣命・市寸嶋比賣命・

田心比賣命、勸請年記不詳 」と記されてゐる。また、『赤磐郡誌』には「宗形三神

卽ち、多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命の三女神を祀る。此の三神は、

素蓋鳴尊が、天の安河を挾んで、天照大御神に御誓ひの時、尊の荒魂卽ち御劍を、

物種として御生れになつた神と、神話に傳へて居る。」といふ。

現在の宮司、門野幸徳氏は、筑前の宗像神神との關係を強く否定されるが、『延喜式

神神國史見在之神社』(明治初年)にも「祭群、筑前國同宗像神」と記されてゐるやう

に、もともと主神は同じであり、両杜の關係は深いものと見ざるをえない。現在の祭神

は、明治四十三年二月二十一日に合祀した神峰神杜以下八社の祭神(大己貴神・大日孁命

(オホヒルメノムチ、天照大神の別称)・豊宇氣比賣命(トヨウケビメ豊受大神)・

須佐之男命・菅原神・速玉男命・事觧男之命(ことさかのおのみこと)・大山咋命

伊邪那美命)を加へ、十二柱となつてゐる。

境内末社には 稻荷神社 ( 祭神、保食神・倉稻魂神 )、香椎神社 ( 祭神、仲哀天皇

神功皇后 )、竹内神社 ( 祭神、吾田片隅命・清和天皇 )、武内神社 ( 祭神、武内宿禰 )、

一位神社 ( 祭神、天御中主命・神倭磐餘彦命・仁徳天皇 )、新田神社 ( 祭神、清和天皇 )

がある。

 

【祭祀】春祭が四月十六日、夏祭が八月十六日、秋祭(例祭)が十月十六日である。

それに、霜月祭が十二月十六日で、氏子が山方當と河見當と呼ばれる二組の當屋に

分れ、神饌七十五膳を奉献してゐたが、昭和二十年以後はとだえてゐる。七十五膳の

奉献はかつての氏子の村数が七十五ヶ村であつたためといふ。

 現在、宮司は門野幸徳氏 ( 二十七代目といふことである。)である。

氏子数は 1,000人、崇敬者は 200人である。明治初年、一五二戸(『延喜式内神社國史見

在之神社』)。

 

【社殿・境内地】本殿は流造、檎皮葺で、間口二間三尺・奥行一間三尺、三坪七五で

ある。幣殿は九坪、拝殿も九坪、これに二坪三五の随神門がある。そのほか、三坪の

神庫、一五坪の社務所。それに鳥居一基(享徳二年の銘あり)、石燈籠二基、狛犬一封が

ある。

境内地は七、二二五坪あり、周邊は森林で園まれ荘嚴な氣風が保たれてゐる。

 

【追記】『備前國式内書上考錄』(明治初年)に「本國一宮吉備津宮の古記録に、山方

上下七ケ村(氏神)と見えたり。また同記に、十二月二十五日、柏鳥とて山方三ケ村より

雉子二番參候。則、其羽にて御内のすゝをはき申候。同三鳥とて三番まいり候。是は

御正月に被遺候と見ゆ。この是里なん古への山方なりける。(中略)今も字に日賣畠・

天之市などあるハ由縁ある地なるべし。

社地のあたりを宮ざご(本郡奥分の俗迫を狭所(サコ)と云ふ)また大宮、また山方と

云ふ。社地の近き邊に、うねかた、むねかた、むねなる、宗ノ西、宗ノ向、むねざこ

(是等の字どもによりて宗形神社の旧跡とは考え定めたり)また、神戸、神田、免田、

神子免、晦日田、節分田、京免、宮免など云ふ字のきこゆるは、皆宗形神社に由縁ある

祭田なることしるし。また作陽誌云、押淵、塚角、大戸、栗子、小瀬、久木

此村押淵或日見牛淵 土人伝言昔備前國赤坂郡是里村大宮池金牛出人逐之牛過キ二山上村久木村ヲ一入ル二

 此淵ニ不見自後夜々有異光或人為以金精趣著鉄索入淵索之此人終不復宗普按唐有金牛嶺曰有僧逐一金牛至此

牛入洞中不出僧亦化石立洞外過夜趣是神燈云其事予牛淵頗相似矣

按ふにここの故事なんミだり 言にはあらすおぼゆ。其は文久元年の頃いたく早魃たる

時、里民此さとになたゝる手洗瀧に至り所雨せしことのあるに、其後瀧より夜中に牛の

如きもの躍出て、同村の内河原屋と云ふ所の瀧に入し由シ語れり。

是は上にみえたる牛淵の故事に相似たる奇事なり。按ふにこれの山方の辺に上代よりすまひけ神にて雨などふ

らせ給ふ功やましましけん。とまれかくまれ荒振神のつらにハあらさるべし。こは此郷に坐剣抜の神の使者

なとにはあらじとおもふと旨あり

と往昔の繁榮ぶりを示してゐる。また、『神社明細帳』(明治三年)に

  「一、(前略) 祠官門野立夫先祖門野神左衛門宗 形武利ヨリ當代迄廿三代社役

  相勤居申候。居屋敷五畝二拾八歩、物成二斗四升五合年貢地。一、社中男女人員

  九入内男四入女五入 一、神官門野立夫義 宗形神社 神峰神社 神峰伊勢神社

  劔祓神社 素蓋鳴神社 天神社兼勤本社 他社共祠官相勤居申候」

と記されてゐるが、現在は、禰宜、社人・神子等は廢絶してゐる。また、『赤磐郡誌』

に「神社の後に、大宮池と称する竪穴様の物大小十八個あり。古代人が生活遺跡であ

る。」

とされてゐるがどうであらうか。むしろ、銅・鐵等の探堀と關連づけて考へるべきでは

ないかと思ふ。

                                 以  上