速吸瀬戸 瀬戸内海 = 明石

いつも、普通に『 瀬戸内海 』『 瀬戸内 』と読んでいますが、

これは、『 瀬戸の内海 』→「 瀬戸=明石海峡 」 ということらしいです。

瀬戸内市明石海峡より内( 西 )にある『 市 』」!微妙ですね!

明石海峡も、潮流の速い所だと思います。鯛・蛸が有名ですね。

保久良神社(神戸市東灘区本山町)には、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が

祀られています。(配祀:須佐之男命、大国主命大歳御祖命

椎根津彦命 =槁根津日子。國學院大學のデータベースでは、

神倭伊波礼毘古命が吉備の高島宮から東に上っていくと、速吸門で亀の背に乗って釣りをしながら、

袖を振って近づいてくる人に出会った。その人を呼び寄せて問いかけたところ、国つ神であると

称した。神倭伊波礼毘古命は海道を知っているかを尋ね、国つ神は能く知っていると答えたので、

みずからに仕え奉らせることにした。承諾した国つ神に棹を渡して船に引き入れ、

そこで槁根津日子の名を賜った。倭国造らの祖。(中略)

神倭伊波礼毘古命が槁根津日子と出会った速吸門は、『古事記』に従えば明石海峡、『日本書紀』に

従えば豊予海峡に比定される。従来「速吸門」は普通名詞であって、そのため記紀の編纂方針の

相違によって位置に錯綜が生じたとされる。『日本書紀』が速吸之門を豊予海峡としたのは、

椎根津彦を東征における最初の帰順功労者とし、倭国造の地位を有利にするための作為であったと

する説がある。一方で、倭国造は瀬戸内海の海人集団と密接な関係をもっていたことが確実視されて

おり、そこから『古事記』では速吸門が明石海峡に当てられたと考えられている。

・・・・・・古事記では、

神倭 伊波禮毘古命。          かむやまといはれびこの命(神武天皇

與其伊呂兄  五瀬命 二柱。      その同母兄(いろせ)五瀬の命と二柱

坐 高千穂宮而。議云。             高千穗の宮にましまして、議はかりたまはく

坐何地者。                          いづれの地ところにまさば

平聞看 天下之政。              天の下の政を平けく聞きこしめさむ。

猶思東行。                          「なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、

即自日向發。                         すなはち日向ひむかより發たたして、

幸行筑紫。                             筑紫に幸いでましき。

(中略:宇佐・筑前 岡田の宮・安芸 タケリの宮)

亦從其國 遷上幸而。                 またその國より 遷り上り幸でまして、

於吉備之 高嶋宮  八年坐。        吉備の高島の宮に   八年ましましき。                     

故從其國     上幸之時。                かれその國より 上り幸でます時に、

乘龜甲   爲釣乍。                          龜の甲せに乘りて、  釣しつつ                

打羽擧來人 遇于 速吸門。        打ち羽振り來る人、速吸はやすひの門とに遇ひき。

爾喚歸。                                    ここに喚びよせて、            

問之 汝者誰也。                   問ひたまはく、「汝いましは誰ぞ」と問はしければ、

答曰 僕者國神。                   答へて曰はく、「僕あは國つ神なり」とまをしき。

名宇豆毘古。                           名はウヅヒコ

(中略)

即賜名 號槁根津日子     さおねつひこと いう名を賜ひき。

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以上の様に「 明石 」とは、特定されていません。

「 高嶋宮 」 よりは、東ですが!