大多府島 春日神社

2011/10/24(月)  に頂いたコメントに「大多府島 春日神社」がありました。
「yamane」は、藤井邑の事しかわかりませんが、少し調べてみました。

ウキペディア 「大多府島」では、このような記載がありました。
岡山藩領手鑑』によると文化年間の島の人口は148人であり、天保年間には168人に増えた。この頃、邑久郡からの入植があった。1707年(宝永4年)邑久郷村から四神を勧請して大漂宮(現・春日神社)を建立した。1875年(明治8年)に大多府村となり、さらに後に日生町の一部になる。現在では備前市の一部となり、人口は142人(2006年現在)である。

確かに、邑久郷から、春日神社は勧請されたようです。

更に、
では、

正徳二年(1712)、氏子を失った寄宮の神々は藩財政で支えていたがその内に管理が困難に陥り更なる集約をおこなうこととなった。71社の寄宮のうち66社の御神体(正印)を集めて合祀するべく大多羅村の句々廼馳神社を造営した。合祀されなかった5社については次ぎの事情があった。既に他村からの要請によって遷宮していた社、3座(邑久郡藤井村の住吉神社邑久郡邑久郷の春日神社、邑久郡土師村の稲荷神社)。


邑久郷に、春日神社はあったようです。更に、藤井村には、住吉さんがいらっしゃられたのですね。
藤井村の住吉さんは「yamane」もわかりません。
邑久郷生まれの愚妻も、勿論「春日神社」は知りません。

かって各村には、八百万多くの神さんがいらっしゃいました。
藤井邑の氏神さんである、瀧神社も「権現様」と呼ばれた時代がありました。

時代とともに、変化しそして逞しく対応してゆくのが、庶民の信仰です。