中世の「吉備」「安仁神社」の歴史についてまとめてみたいと思います。
何故、「安仁神社」が、現在「備前国一宮」でなく、「二宮」なのか、その理由も考えてゆきたいと思います。
713(和銅6) 備前国6郡を割いて美作国なる
721(養老5) 備前国邑久郡・赤坂郡から藤原郡を分離する
751(天平勝宝3)吉備真備,入唐副使となる
769(神護景雲3)備前国藤野郡を和気郡に改称する.和気清麻呂,宇佐八幡の神託を伝え,配流される
807(大同2) 備前国,大嘗祭の主基となる →安仁神社・美和神社
833(天長10) 備中国下道郡,大嘗会の主基となる
847(承和14) 備中国吉備津彦命神に叙位する
927(延長5) 藤原氏編纂による延喜式完成。
941(天慶4) 承平・天慶の乱(藤原純友の乱)終結。
967(康保4) 延喜式施行
1017(寛仁1) 藤原道長、太政大臣就任
ところで、この一覧表を見ていて意外なことに気がつきます。
延喜式名神大社である「安仁神社」が、備前一宮ではなく、「備前 吉備津彦神社(延喜式式外社)」である理由として、最近は
『これは天慶2年(939年)における天慶の乱において、藤原純友が反乱を起こした際に安仁神社は純友に味方し、一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社は官軍(朝廷)に味方したためという説がある。結果、純友は敗北。安仁神社は一宮としての地位を剥奪され、吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。』という説が流布しています。
しかし、上の表のように、承平・天慶の乱(藤原純友の乱)終結後、延喜式が施行されています。
延喜式は、藤原氏により編纂されており、いわば「親藤原派」の神社です。
以外ですが、藤原氏の頂点である「藤原道長」は、承平・天慶の乱の数十年後なのです。
天慶の乱で、朝廷に味方「吉備津彦神社」の地位が更に向上したことは推測されますが、
それが「安仁神社」抑圧の直接の理由とは考えられません。
理由はほかにあるはずです。