オペラ「ワカヒメ」吉備の盛衰

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今日の山陽新聞に上のような記事がありました。
ところで、藤井にある『安仁神社』は、『兄神社』と称されたとの伝えもあります。吉備で『兄』というと、この時代誰でしょう。

ウキペディア 『吉備国』  http://ja.wikipedia.org/

5世紀にヤマト政権内で権力を掌握した大泊瀬幼武大王(諱名:雄略天皇)は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけ、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備の勢力を削減させている。

吉備で『兄』というと ・・・・・
吉備上道臣兄君 :吉備上道臣田狭と稚媛の間の子。清寧天皇即位前紀の星川皇子事件において、星川皇子と共に殺される。
吉備兄媛応神天皇が、応神22年、吉備兄媛を追って吉備に幸し、葦守宮で供応を受け、御友別らに吉備5県を分封。

「吉備兄媛」はないでしょう。
それでは、「吉備上道臣兄君」ではどうでしょう。